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「次郎長生家」
次郎長が生まれた家 幼少~渡世人~事業家としての晩年までの次郎長の人生を時代絵巻で紹介。全国から観光客が訪れる次郎長親分の聖地。切った張ったの世界を生き抜いた次郎長の勝負運にあやかる開運「勝ち札」が好評。2017年7月8日、リニューアルオープンしました。
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「壮士の墓」
次郎長の人生の転機となった、明治元年に清水港内で起きた咸臨丸事件。その内戦の戦没兵を敵味方無く次郎長が葬った墓所。墓石の揮毫は、次郎長の行動に感銘した江戸無血開城の立役者山岡鉄舟によるもの。
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「波止場と次郎長堤」
明治維新後、博徒をやめ改心した次郎長は、地元清水で様々な社会貢献事業を行った。その大きな一つが波止場の構築である。開港場横浜港への定期航路の実現にも尽力。「お茶の港・清水港」の発展をコーディネイトした。その遺構は「次郎長堤」として現存。次郎長自身が晩年に経営した船宿「末廣」は、元はこの次郎長堤の近くにあった。子供好きの次郎長は「波止場のおじいちゃん」と呼ばれる好々爺だった。
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次郎長資料館「船宿末廣」
次郎長が経営した船宿には広瀬武雄・小笠原長生らも訪れ、海軍兵の定宿でもあった。
明治26年、次郎長74歳の終焉地。
もともと波止場にあった建物を移築復元した。主に明治維新以降、改心した次郎長の後半生を伝える資料館。 -
「梅蔭禅寺」
次郎長墓所。榎本武揚揮毫の墓碑「侠名 清水次郎長」の傍らに一代目から三代目の妻「お蝶の墓」と大政・小政らの墓石が並ぶ。駿府城を模した石垣の上から清水港を見つめる次郎長の銅像が撮影ポイント。次郎長が博徒時代使用した遺留品を展示した資料館がある。
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「美濃輪稲荷神社」
幼少期の次郎長がよく相撲をとって遊んだという伝承がある。境内を囲む明治13年造営の玉垣の寄進者の中に「山本長五郎」の名がある。前年に完成した「波止場」の発展祈願に約500人の寄進が県内外からあり、次郎長は方々に呼びかけ世話役をしたと考えられている。