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彰義隊…戦火逃れ移住
明治5年に「相良油田」発見



村上正局 

 次郎長も関わった相良油田は、幕臣村上正局(まさちか)により明治5年2月に発見された。筆者は十数年前、相良町の一角にある油田跡地を訪ねたことがあったが、茶畑に隣接して機械掘の鉄塔が一基、まだ残されていた。静波出身で当時通産審議官だった若杉和夫氏によれば「原油は良質、コストさえ合えば今でも掘れる」とのことであった。

 130年前にこれを発見した村上正局は、彰義隊の生き残り。移住幕臣の一人として相良勤番組三等勤番に編入、海老江村富田伝五郎方に寄留したのは明治3年のことで、すでに新番組隊士らによる牧之原茶園の開拓が始まっていた。

 正局が江戸の戦火を逃れ、沼津からここに移ったときには40歳を超えていた。豊かなひげをたくわえた顔写真は、さらに後年のものである。

 その経歴を見ると、文政11年(1828年)生まれ。高辻家に仕え、10俵一人扶持という微禄ながら、れっきとした徳川家臣である。

 鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が、恭順の意を表して上野寛永寺大慈院に入ったのは、慶応4年(1868)2月。村上正局は2月3日、兵制改革で新設されていた撤兵(さっぺい)隊に編入された。もともとは御小筒組と称されていた小銃隊である。後に沼津兵学校創設にあずかった江原素六は撤兵頭並(隊長格)であった。

 錦の御旗をひるがえした東征大総督有栖川宮熾仁親王が駿府(静岡)に入ったのは3月5日。そのころ江戸城では、慶喜の恭順に反し、主戦論が沸騰していた。はじめ浅草本願寺、さらに上野寛永寺を本拠とする彰義隊が結成され、徳川家に殉じようと正局はその一員に加わる。

 江戸城が無血開城してからも、2千名を超える彰義隊は上野山中にたむろし、ゲリラ戦術で新政府軍と衝突事件を起こしていたが、5月15日、大村益次郎による一斉攻撃で潰滅させられた。
村上正局はこの日の攻撃に、辛うじて砲煙弾雨の間をかいくぐって逃げのびた。はるか後の明治15年1月15日に書かれた「遺書」によれば、逃げのびてから各所に潜伏したとのことである

 明治2年3月、晴天白日の身となり、沼津勤番組を経て翌3年、相良海老江村に移住した。「相良油田発見史覚書・川原崎次郎」によれば、海老江村富田伝五郎方に寄留していた村上正局が、地元の人から臭気の激しい液体の出ることを聞き、これを採取して静岡学問所のお傭い外国人教師W・クラークに分析を依頼、石油であることがわかったという。明治5年3月のことある。

 勝海舟が米国から招いたクラークは、静学問所で物理化学を教えていたが、その著書「日本滞在記」(飯田宏訳)には、「―遠江の人々が、石油が山腹をしたたり落ちている大きな岡を発見して、その調査にわたしを呼びに来た。わたしはそれが非常に良好な石油だと知ったので、蒸留によって得た若干の製品を彼らに送った。彼らはいたく喜んで深い井戸を掘りたいと言った。知事はその石油地区へ来て、どこを掘ったらよいか人々に教えてもらいたいと言った。」とある。

 県知事の依頼を受けて、クラークは相良の現地まで行き、それを確かめた。石油発見のニュースを新聞報道で知った石坂周造は、素早く行動を起こし、同年5月正局と会い、共同して石油採掘事業を始めた。

 正局は明治21年、60歳で没。その曽孫村上芳雄は、昭和初年、マグロ油漬缶詰の技術を初めて開発し、清水港からの輸出花形商品とする道を開いた人である。

産経新聞   平成11年 3月31日 『文化』より