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大政の跡を継ぎ裾野開墾
 28歳で次郎長の養子縁組み
     


愚庵天田五郎(あまだごろう)その2


 天田五郎が次郎長のもとを一旦辞し、東京へ向かったのは、明治12年の春である。 戊辰戦争で失った父母と妹の行方をたずねる遍歴の若者に、次郎長は助力を惜しまなかった。地元の有力者、廻船問屋の経営者たちにも協力を求めた。片瀬商店の中井俊之助、播磨屋儀平こと鈴木与平らは、五郎が東京に発つ時、餞別を贈って励ました。 東京で写真術を身につけ、旅回りの写真師となって伊豆方面を遍歴したころ、川奈でよんだ歌がある。

 小車の廻り逢わずに十年余り 歳の三年となるぞ悲しき

歌にもあるように、明治13年になっても父母妹の行方はわからない。その翌年、五郎は再び清水港へもどってくる。 次郎長の一の子分であり後継者と目される大政がなくなったからだ。山本政五郎、50歳。次郎長の養子として戸籍にも記載されている葬儀には高萩万次郎ら全国の親分が参列した。 五郎も旅先から駈けつけた。高萩万次郎の子孫の家に、この時五郎が撮ったと思われる二階建ての次郎長の住居と(上写真)、巴川を距てた対岸向島の写真(下写真)2枚が残されている。


 旅先から大政の葬儀に駈けつけた五郎は、再び次郎長のもとに寄留し、大政の跡を継いで富士の裾野開墾事業を監督した。 富士市大渕。今でもそこには、バス停の名に次郎長開墾の名がとどめられている。次郎長は明治7年から数十人の囚人を使って開墾をはじめ、80・近い広大な地に茶や桑を植えようとした。 人里離れた山地で、受刑者を使役しての開墾事業というのは、想像以上の難事業である。北海道開拓では逃亡を防ぐために足鎖が使われたが、次郎長はいっさいそういったものを使わなかった。五郎は、現場の山小屋で、受刑者たちと寝泊まりを共にして監督に当たった。

 「山を見に行くから、よく見せてくれるように、3人にて行く」と、次郎長が現場に宛てた手紙が残されている。次郎長は時どき清水港から泊まりがけで足を伸ばし、開墾の進みぐあいを見に行った。現場では、資金不足に悩んでいたらしい。五郎から次郎長に宛てた手紙には、食料を調達する金がないと、切迫した文面で訴えている。 「この間おつかわし相成候金子十円は、五円星野氏へかえし、三円二十銭は白米二斗九升一合一勺買い、二円二十八銭はさつまいもを買い申し候につき、のこりなし」といった調子である。五郎から次郎長に宛てたこの手紙には、末尾に「御両親様」と宛名が書かれている。

 大政が亡くなって後継者を失った次郎長は28歳(明治14年)の五郎を養子に迎え入れたのである。 開墾事業は開始してから10年、明治17年まで続けられた。資金の状態はますます窮迫していく一方で、明治17年、全国一斉に行われた博徒検挙に引っ掛かり、次郎長が静岡井之宮監獄に収監されるという事件が起こった。 2月某日、自宅にいきなり数人の刑事が踏み込んで次郎長を拘引するというところから始まる、おちょうさんの手記が残されているが、その時、五郎は東京にいた。おちょうさんは息子の清太郎を上京させ、急いで清水へ来るように頼んだことが記されている。 そのころ五郎はすでに新しい天地を求めて、次郎長のもとを離れようとしていたのである。 の味」が辞世の句。

産経新聞 平成11年3月3日 『文化』より