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元祖「東海遊侠伝」を書く
   次郎長と深い運命の糸で…
 

    

愚庵天田五郎(あまだごろう)その1

ふじがねに のぼりて四方の国みるも
まづふるさとの 空をたずねて

 清水市梅蔭寺次郎長銅像の前にある小さな石碑に記されたこの歌は、愚庵天田五郎が次郎長のもとで富士裾野開墾をすすめていた時期によんだものである。

 いわき市在住、愚庵研究第一人者の中柴光泰氏がこの歌を選んだが、解題に中柴氏は、「碑面の短歌は不二歌道会発行の昭和21年9月号『不二』にのっていた『水無月廿日まり二日不尽の高嶺にのぼりてよめるうた』と題する長歌の反歌で、富士山を中心に次郎長と愚庵との、清水市といわき市とのつながりを見事に内包した名吟である」と記している。

 禅僧愚庵として京都伏見で生涯を終える天田五郎は、明治11年から17年にかけて清水港の次郎長のもとにあり、一時は養子にもなるという深い縁を結んだ。その間に稿を起こして出版した「東海遊侠伝」は、次郎長伝記の元祖として広く知られるところだ。

 愚庵と次郎長は、単に漂泊の若者と博徒の親分の出会いという以上に深い運命的な糸で結ばれている。 明治11年の暮れ、山岡鉄舟の紹介で天田五郎が清水港にやって来たとき、次郎長の家(明治10年、上町から移転)の巴川をはさんですぐ前に咸臨丸殉難者を葬る壮士墓があった。

 いうまでもなく咸臨丸殉難者は、明治元年の戊辰戦争清水湾口の戦いで官軍に惨殺された犠牲者である。賊軍の汚名を冠せられ、放置されたままの犠牲者の遺体を、次郎長が手厚く葬って建てたのが壮士墓だ。

 天田五郎の肉親もまた、戊辰戦争の犠牲者である。磐城(福島県いわき市)藩勘定奉行の子息だった天田五郎は戊辰戦争磐城口の戦いに参加、官軍の攻撃の間に、父母と幼い妹が行方不明となった。「生涯をかけても」との決意を立てた五郎は、その行方をたずねる旅に出る。

 母をたずねて三千里ではないが、肉親の行方を求めて彷徨漂泊する若者に、次郎長は助力を惜しまなかった。彼は全国にまたがる街道筋の親分に手紙を出し、情報を求めた。五郎が次郎長のもとにあったのは、7年間である。その間、東京で写真術を身につけ、旅の写真師となって伊豆方面を遍歴したり、身延山で参詣人の名簿を調べたりしたが、父母妹の行方はわからなかった。

 写真修業のため東京に出た明治12年5月5日の日付で次郎長に宛てた手紙がある。現代仮名づかいに改めて引用しよう。

「―私ことも去る一日、京(東京)着仕まつり、当今は浅草奥山の写真師江崎礼二と申すものの弟子に相成り、いずれ七月までには一人前のしゃしん司(写真師)に相成り候心得に御座候」

 江崎礼二は下岡蓮杖の後継者、草分け時代の明治写真界の大御所であった。手紙の後半には、「東海遊侠伝」の草稿についてふれている。鉄舟の紹介で初めて次郎長に会ったのが明治11年の11月。それから切った張ったの武勇伝を聞き書でまとめ、東京へ出るときにはすでに草稿ができあがっていて、四谷に住む鉄舟に も見せたらしい。

 手紙には次のように記されている。
「あの本は私国へ帰りまする時、先生の家へあづけ置候ところ、諸方から借りられ、なくさぬように誠に骨折りたりとて咄しこれあり候」
「あの本」というのは東海遊侠伝の草稿にほかならない。

 産経新聞   平成11年2月24日       『文化』より