維新の転換期 次郎長と行動共に
豪気、太っ腹の豪商
●松本屋平右衛門(まつもとやへいえもん)
次郎長と新門辰五郎を引き合わせた松本屋平右衛門は、清水港の廻船問屋の中でもトップに位する豪商である。豪商であるばかりでなく、豪気、剛腹、太っ腹の人物で次郎長とは大いに馬が合い、明治維新の大転換期には、お互いに行動を共にした。
天保2年(1831)生まれだから、次郎長とは大体一回り年下、次郎長が悪ガキで暴れ回っていた時代に清水町本町で生まれた。本町は、清水八ヵ町の中でも播磨屋とか三保屋といった家康以来の廻船問屋が数多く軒を連ねている。松本屋もその一軒であった。
後つぎに生まれた平右衛門は、12、3歳のころ、修行のため江戸南新堀の守田半兵衛商店に預けられ、10年近く奉公して清水に帰り、家業をついだ。生まれつきの豪気な性格に加えて、商機を的確につかんで積極経営を進めたから、松本屋の家産はまたたく間に大きくなり、地元の町民は平右衛門の非凡な才能に驚いた。
慶応何年かという年、手代の吉兵衛を連れて横浜へ米の買い付けに行ったことがある。1千6百石の米の代金1万3千両を支払って船積みを終え、正に出帆しようというとき、浦賀役所から待ったがかかった。 「駿府町奉行所印のある許可証が必要」というのだ。一揆や打ちこわしなど、民衆の不穏な動きが頻発する時代だったから、米の廻送に役所は神経をとがらせていたのである。
平右衛門は23両という大金を使って飛脚に特注し、前後3日間という超スピードで駿府町奉行所印のある許可証を取り寄せるのにまず成功した。しかし許可証に記載してあった積み荷の数量が合っているかどうか、予め点検しておかなければならない。ところが、許可証には奉行所の封印がしてある。
平右衛門は周囲の者が制止するのも聞かず、あれよあれよという間に手にとって封を破り中身を改めた。再び元のように封印するのは不可能だ。どうしたかというと、平右衛門は封の破られた文書を手に取って丸め、庭の池の中に投げ込んでしまったのである。 封印破りが大罪であることは誰でも知っている。手代の吉兵衛は、主人が気でも狂ったのではないかと驚いたが、平右衛門は悠々として言った。 「封印を元のようにするのは、不可能だ。下手に工作するより自ら非を表明した方がよい。御用状は、飛脚が川におとしてようやく拾いあげたのでこのように汚損したというのだ」
ただちに筆をとって始末書をつくり、許可証に添えて浦賀役所に提出、2艘の船に積まれた1千6百石の米は、無事清水港へ運ばれた。このように間髪を入れないスピード感のある行動で人の意表に出るのが、平右衛門の特色である。
また、米、塩、紙などの買い付けのため、大金を持って大阪に出張したとき、過激浪士に襲われたことがあった。同行した駿河商人北村五郎兵衛の目撃談によると、大男の浪士が、平右衛門の背後から近寄り、刀の束に手をかけて、あわや抜打ちしようという瞬間、平右衛門はふりむいて男の右ひじをつかまえ、しめあげた。平右衛門は身長はそれほど高くはなかったが、体重は22貫(約83・)もあり、腕力は抜群、浪士の持っていた刀をもぎ取り、道路わきの溝に投げ捨ててしまった。
明治2年、静岡藩の要請で新政府発行の太政官札を大量に引き受け、それが負担となって大きな損失を蒙った。次郎長といっしょに清国に渡り、商業経済を視察しようという計画があったが、それを果すことなく、明治4年41歳という短命で没し、松本屋も没落した。その文庫倉が、本町の鈴木家に保存され残されている。
産経新聞 平成11年(1999年)2月17日 水曜日 『文化』より