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次郎長の言動に感動
『死ねば仏、官も賊もない』「咸臨丸事件」



山岡鉄舟(やまおかてっしゅう) 

 次郎長に最も影響を与えた人物は誰かと聞かれれば、10人のうち10人までが山岡鉄舟と答えるだろう。 たしかに剣禅一如の人鉄舟は、明治の次郎長の生き方に大きく関わった。しかし私は、影響を与えたのは鉄舟の側からではなく、むしろ次郎長の方からだと言いたい。

 明治元年に起きたあの咸臨丸事件の時、鉄舟はスタートしたばかりの駿府藩幹事役であった。 箱館を目指す幕臣たちを乗せた咸臨丸が難破船同然の姿で清水港に入った時、駿府藩幹部たちは困惑した。 明治新政府にとって咸臨丸に乗組んでいる幕臣たちは、歴とした反乱軍である。あたかも駿府藩は、自らの懐(ふところ)の中に爆弾をかかえ込むようなことになったのである。

  新政府に対しては、何が何でも、彼らを説得し箱館行きを中止、降伏させねばならない。咸臨丸が清水港に入ってきたのは明治元年8月、この頃はちょうど、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中という時期だ。 駿府藩がもたもたして1ヵ月も空費している間に、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺した。

 砲撃の間に、乗組んでいた者の大半は、海に飛び込み、近くの三保貝島などに泳ぎ着いた。『復古記』には上陸した者80人を駿府藩に命じ「禁固セシム」とある。 無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄され、咸臨丸は翌朝、官軍艦によって品川まで曳航された。斬殺の7人のうち副艦長の春山弁蔵は長崎海軍伝習所の第1期生、草創期のわが国造船界にとって、かけがえのない人材であった。 内戦の悲劇というべきだろう。

 彼らの死体は投棄されたまま海中に浮遊し、誰も手をつける者はいない。「賊軍に加担する者は断罪に処す」という新政府の厳重な布告が出ていたからである。 そこで次郎長が登場する。「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」この有名なセリフを吐いて、次郎長は7人を向島の松の木の根もとに手厚く葬った。

 鉄舟は、目を洗われたかと思うほど感動した。次郎長は単なるバクチ打ちの親分、官軍が駿府に駐留している間、市中警護役として御用をつとめた男、いわば二足の鞋(わらじ)をはく目明かしか岡っ引きぐらいに思っていた。 ところがそうではない。その言、その行動からすれば、次郎長の頭の中には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはない。あるのは、人間として正しいか、正しくないか、正か、邪かといった物差しだけである。

 鉄舟は心底から参った。 次郎長と鉄舟の交わりは、この咸臨丸事件から鉄舟の亡くなる明治21年まで続いた。松岡萬をはじめとする大勢の幕臣たちとの交友もこの時からである。 鉄舟がある時、次郎長に言った。 「お前さん、一度理学の本を読んでみたらよい」 次郎長は早速本屋へ行って「理学」の本を求めたというエピソードが、東海遊侠伝にある。この「理学」というのは、自然科学ではなく、明治初期にはやったベンサムの「利学」のことかと思われる。その方の次郎長の才を、鉄舟は認めていたのかもしれない。 天保7年、幕臣小野朝右衛門の四男に生まれ、山岡家を継いだ鉄舟は62歳で没。東京、谷中の全生庵に葬られた。

産経新聞   平成11年 6月23日 『文化』より