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フグ振る舞って一家中毒
次郎長に歴史を手ほどき



宏田和尚(こうでんおしょう) 

 次郎長武勇談の1つに、吉兵衛ら都田3兄弟をやっつける件がある。虎造の浪花節の中でも最も有名な「食いねえ食いねえ、すし食いねえ」で知られる石松が、金比羅代参の帰途、預かり持っていた香典をだましとられた上に惨殺される。万延元年、あの咸臨丸が初めて太平洋を渡り、井伊大老が桜田門外で水戸浪士に襲撃された年のことだ。

 浪曲では都田が都鳥となるが、「悪い野郎は都鳥」の吉兵衛らは、次郎長に仇を討たれるのを恐れ、すきを狙って逆襲をかけようとしていた。折しも次郎長一家がフグに当たってバタバタ倒れているという情報が入ってくる。それっというので、吉兵衛は子分を引き連れ、清水港に殴り込みを仕掛けた。結果は迎え討った大政らの奮戦により、仕掛けた都鳥兄弟が全滅、石松の仇はカウンターパンチでとるということになる。

 この事件の発端となった次郎長一家フグ中毒の話は実話で、梅蔭寺の過去帳に角太郎、喜三郎という次郎長子分の2人の名が記録されている。

 次郎長一家にフグを振る舞ったのは、当時の梅蔭寺住職の宏田和尚という人である。講談や浪曲では「生臭坊主」ということになっているが、実像はそうではない。私事で恐縮だが小生の祖父は宏田和尚の次の次に梅蔭寺住職となった月心和尚という人で、明治19年、13歳の時青梅(東京都)からやって来たときには、宏田和尚は健在で、直接聞いた話を後に書きとめている。

 月心覚書によれば、宏田和尚は温和な学者タイプの人である。次郎長は自分の継いだ甲田屋という米屋を姉夫婦にゆずり、無宿者となって三河寺津港(愛知県西尾市)を中心に旅から旅の渡世人生活を送っていたが、時どきは故郷清水港へ帰ってきた。宏田和尚は無宿者の次郎長を梅蔭寺の一室にかくまった。かくまったばかりでなく、「史記」や「水滸伝」など中国の歴史物語を次郎長に手ほどきした。

 次郎長には3人の師がいるという。山岡鉄舟、天田愚庵、もう1人が宏田和尚であるというのが月心和尚の説だ。 次郎長の人生の師といわれる宏田和尚については、多くのことはわかっていない。わずかに、文政12年(1829年)3月、志太郡岡部宿川原町古野の植野家に生まれ、興津霊泉寺で修業して梅蔭寺に入ったことがわかっているぐらいだ。次郎長より9歳年下であるが、先に記したように次郎長に中国史書などの知識を授けたり、官憲の追及からかくまったばかりでなく、明治になってからは2人共同で「質店」を開業したという話が伝わっている。

 親分と和尚の共同経営による質店は、今の次郎長通り(清水市)にあったらしい。残された印鑑によると店名は「山本三右エ門」となっている。「山本」は次郎長の養子に行った米屋甲田屋の姓であり、「三右エ門」は次郎長の生家高木家の当主が代々襲名する名である。次郎長の父親が「雲見ずの三右衛門」と呼ばれたことは、よく知られている。 明治元年、あの咸臨丸事件が起き、次郎長が港内に棄てられた徳川軍の死体を拾って葬むろうとした時、梅蔭寺住職の宏田和尚は進んで次郎長に協力した。このことは「咸臨艦殉難諸氏記念碑落成報告」に記されている

 明治20年、旧幕臣たちによって咸臨丸慰霊碑が興津清見寺に建てられたとき、梅蔭寺においても供養の法要が営まれたが、その導師をつとめたのが、当時すでに70歳を過ぎていた宏田和尚であり、法要の後の慰労の宴は、そのころ開業されたばかりの次郎長経営の船宿「末廣」で開かれた。

産経新聞   平成11年 5月19日 『文化』より