次郎長の禁酒理由
酔って帰途襲われ… [懐旧談]
●三代目お蝶(おちょう)その2
お蝶さんは語る。「お酒でございますか。お酒は20歳くらいまでは1升くらいやったそうですが、晩年になっちゃちいとも飲みません。飲まないのには、わけのございますことで、その理由を始終わたしどもにも若いものにも話しておりました。」(「侠客寡婦物語」)
次郎長は酒を断ったのは、まだ米穀商甲田屋の若主人として商売に励んでいた頃、芝居見物の帰途、酔って歩いていたところを数名の男に襲われ袋叩きにされて半死半生の目に遭ってから。以来生涯を通じて盃を手にすることはなかったのである。お蝶さんの懐旧談は食事の好物について続く。「そのうちでも猪が大好物です―これに続いちゃ飯が大好きです。―清太郎を連れて神奈川の神風樓へ参ったときなんか駿河の飯の好きな人が来るといわれ、ちゃんとどんぶり見たような大きなお茶碗さえ前以て用意された程です―」
この話に出てくる清太郎は、お蝶さんの実子で安政4年生まれ、入谷姓を名乗った。次郎長はこのお蝶さんの連れ子清太郎を可愛がりどこへ行くにも連れて行った。
お蝶さんの懐旧談は次郎長の17回忌が梅蔭寺で行われた明治42年6月のものであるが、その時とった写真には、お蝶さんと並んで口ひげをはやした清太郎がうつっている。この法要には次郎長一家の重鎮当目の岩吉や関東市こと加藤市太郎などばかりでなく、お蝶さんの血縁の篠原幹三郎、長男清太郎の子入谷麟助、小島ていなどが参列している。
次郎長には後つぎとなる実子がなく(桜井氏との間に初四郎という子があったが、次郎長没後数年で死亡)、お蝶さんの血縁に当たる山下燕八郎の娘けん(明治2年生まれ)を養女に迎え跡目としたのは前回記した通りである。
波止場の船宿「末廣」は、次郎長亡きあとお蝶さんの手で経営が続けられたが、大正5年81歳の高齢で亡くなった後、養女山本けんが引き継いだ。ところがこの人も大正10年40歳そこそこで亡くなり、次郎長の後継者はまったく絶えてしまったのである。
次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の刀胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の末廣に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助と受け継がれて残された。
入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。
麟助と妻恒の間には、啓一、篤次の二人の男子があった。お蝶さんの曽孫に当たる。しかし二人とも太平洋戦争で戦死した。兄啓一は陸軍大尉、フィリピンレイテ島において、弟の海軍中尉篤次は高知県香美郡夜須においてである。篤次の場合は、終戦の翌日、すなわち昭和20年8月16日であるから痛ましい。
8月16日の夜7時、四国南岸の水上特攻隊・第128震洋隊に出撃命令が入り、出撃準備中、25隻の艇の1隻が燃料に引火して炎上、船首に装てんされた爆薬に次つぎに引火して大爆発が起こった。震洋隊員111人の若い命は南海に散った。夜須に立てられた「震洋隊殉国慰霊塔」に入谷篤次の名が刻まれている。明治・大正・昭和三代にわたって流れるお蝶さんの血脈である。
産経新聞 平成11年 5月12日 『文化』より