駿府藩公儀人最後の「箱館奉行」
赤心隊事件の収拾に尽力
●杉浦梅潭(すぎうらばいたん)
明治元年12月23日、40歳を少し過ぎたかと思われる身なりのいい1人の武士が清水港本町の船着場に降り、廻船問屋三保屋源七方に投宿した。
清水港はあわただしい歳末を迎えていた。江戸が東京と改められ、徳川家が駿府藩主として存続することが決まるとともに、おびただしい数の徳川家臣とその家族たちが、幕府の借り上げた外輪蒸気船ニューヨルク号やゴールデンエイジ号に乗り清水港にやってきた。そればかりではない。清水港の住民たちには、あの咸臨丸戦争の時、官軍の軍艦のぶっ放した砲音がまだ耳に残っているというのに、この暮れへきて、駿州赤心隊員の1人御穂神社神官、太田健太郎が旧幕臣と覚しき刺客に暗殺されるという血腥い事件が起こったのである。
三保屋に投宿した武士は杉浦兵庫頭誠。500石取の旗本で、最後の箱館奉行として五稜郭の奉行所を新政府に引渡した人である。彼は12月4日駿府藩公議人に任命され、赴任の道中清水港に上陸、2日後駿府(静岡)に着任した。
駿府藩は騒然としていた。神官、太田健太郎殺人事件が起きたのは12月18日。杉浦が着任したのは、それから10日もたっていない。
暗殺の犯人が徳川の者であることは歴然としていた。殺された太田健太郎は駿州赤心隊員。徳川慶喜征討軍、錦の御旗をひるがえす官軍に加わるため神官たちが結成した義勇軍の一員である。いかなる理由があるにしろ、天皇の軍隊の一員を、徳川家臣が殺傷するというのは、一歩処置を誤れば駿府藩取潰しにもなりかねない。いや名分さえ立てば70万石駿府藩の取潰しなど、新政府にとってわけないことなのだ。しかも太田健太郎に続いて、12月22日には草薙神社神官、森斎宮が襲撃され重傷を負うという事件が起きた。
平岡丹波、大久保一翁以下駿府藩幹部は、新政府にどう対処するか苦慮し、鳩首協議を重ねていた。けっきょく着任したばかりの杉浦兵庫が使者として新政府に報告書を差し出すこととなった。「静岡県史・資料へん16」には、この時の「杉浦兵庫近々東京え相越候ニ付」といった伺書や「弁事御役所え御届書案」とした事件の報告書原案が収録されている。
年が明けた正月早々、杉浦は宿泊先の上石町三方屋を出発し、1月9日東京着。東京には当時駿府藩出先要員として勝海舟、関口隆吉、前田密らが居り、新政府との折衝に当たっていた。
心隊事件の報告書を持った杉浦が東京に着いてからどのように行動したかの記録はない。しかし駿府藩は取潰しになるような大事に至らずにすんだ。 ちなみに赤心隊事件の直後、次郎長は太田健太郎の妻さえや幼い希豫太郎ら遺族を避難させるため、三島大社神官、矢田部盛治のもとへ送り届けている。
明治2年2月、新政府は諸藩代表の公議人の出席による公議所を開設。3月7日東京の旧姫路藩邸で開かれた公議所開院式に、杉浦は駿府藩公議人として出席した。
2年8月、新政府から外務省出仕を命じられる。はじめ「唐太地取調御用掛」、次いで「開拓使権判官」として再び函館へ赴任する。
駿府藩と杉浦の関係は僅か1年にも満たないが、その戸籍は移住幕臣の1人として掛川にあり、明治政府官僚となってからも親族の法要などでしばしば静岡を訪れている。
最後の箱館奉行として知られる杉浦は、文政9年(1826)生まれ。鉄砲玉薬奉行、開成所頭取、目付等を歴任。晩年は梅潭の号で詩作に親しんだ。明治33年(1900)没。
産経新聞 平成11年 4月21日 『文化』より