明治政府に重用され初代の静岡県知事
勝海舟を襲いのちに親交
●関口隆吉(せきぐちりゅうきち)
時の静岡県知事関口隆吉に向かって次郎長は言った。「静岡県を猫にたとえると遠江が胴、伊豆が脚、清水みなとは口に当たります。口からどんどん栄養を与えなければ猫は成長いたしません」
単なる博徒の親分とは思えない清水港未来論を聞いて関口隆吉はいたく感銘した。明治19年(1886)、初代静岡県知事として関口は任官したばかりである(それまでは県令)。次郎長はそのころ開発の進められていた清水港向島の波止場の一角に、船宿末廣を開業し、3代目おちょうに帳場を切り盛りさせていた。
咸臨丸事件殉難者の17回忌を兼ねた慰霊式典が行われたのが明治20年。清見寺に続いて梅蔭寺で法要が行われたあと次郎長の末廣で慰労の宴席が設けられ、大勢の旧幕臣が列席した。関口隆吉をはじめ旧幕臣と次郎長の広く深い交友の輪は、こんなところにもうかがわれるのである。
関口隆吉は天保7年(1836)、江戸本所の生まれ。またの名は艮輔(ごんすけ)、号は黙斎という。父隆船は幕府与力である。 23歳の時、尊攘運動の理論的指導者といわれる大橋訥庵の門に入り、熱烈な尊攘主義者となった。慶応3年(1867)、開国論者勝海舟を襲った話は有名である。
「広辞苑」の編者として知られる新村出は、関口の長男であるが、父のことを思い出話として昭和38年11月の、産経新聞連載にこう書いている。
「わが実父黙斎は、漢学仕込みの一点張りであったから、尊王攘夷の長州志士の影響を被り、幕臣ながらも、非開国派の思想に左右せられたのか、幕末の際どい最中に、しかも幕士中の大先進者たる勝海舟が馬上、九段坂上を過ぎゆくのを見掛けて、腕に刀剣の覚えがあるのを自信し、いきなり海舟に斬りつけた所、さいわいにも馬おどろき躍進して乗者は逃れ去って、刃先は、海舟の鐙に当たっただけだった。」
襲われた海舟の方は平然として、黙斎をもじって「鐙斎先生」の雅号をつけた書面を送り、以後二人は親交を結んだという。 問題処理能力、管理能力は多くの幕臣の中でも抜きんでており、維新後明治政府に重用され、山口県令時代には前原一誠の乱を治めるなどテクノクラートとして異才を発揮した。静岡県には奈良原繁の後任の県令として赴任し、引続き初代静岡県知事となったことは前述の通りである。
県令就任当時、静岡県には自由民権運動の嵐が吹き荒れており、その制圧の一環として行われた博徒一斉狩込みに引っ掛かって、富士裾野開墾など社会事業に打込んでいた次郎長まで検挙され、静岡井の宮監獄に収監されていた。奈良原繁の後をうけた関口によって次郎長は仮出獄を許され、明治19年には、船宿末廣を開業した。
明治22年(1889)4月11日、関口は名古屋招魂会の招魂祭列席のため、開通したばかりの東海道線下り列車に静岡駅から乗った。事務繁忙のため予定の旅客列車をはずし、土木工事資材運搬の貨物列車に便乗、これが命取りとなる。列車が丸子新田で上り列車と正面衝突し、重傷を負った関口は手当の甲斐なく、53歳の生涯を終えた。
その年、新村出は静岡中学(現静岡高校)の生徒だったが、清水港末廣に次郎長をたずねた、と後年回想している(法月俊郎当書状)。父は法事についての相談と筆者は推測している。
産経新聞 平成11年 4月14日 『文化』より