次郎長船宿『末廣』


次郎長ゆかりの船宿『末廣』復元オープン

次郎長が晩年、清水波止場で営んだ船宿「末廣」が、今年の4月1日復元オープンから1週年となりました。
木造2階瓦葺、場所は港橋畔のエスパルス通り入り口の角地。          
内部は次郎長ゆかりの品などを展示した博物館。お茶で休憩もできるスペースもある。
(写真:正面玄関より)



● 清水市が同市港町一丁目のエスパルス通り商店街西端にこの度、清水次郎長の船宿「末廣」が完成した。
近くには次郎長が眠る梅陰寺や次郎長通り、壮士の墓など次郎長ゆかりの名所も多く、「末廣」は港と次郎長
を結ぶ史跡探訪の拠点として新たなシンボルとなった。                        

「末廣」は次郎長が晩年に開業した船宿で、後に日本初の英語塾の舞台になった宿ともいわれている。
 明治初期、横浜との間を頻繁に往復し、静隆社創設の影の立役者となった次郎長は、晩年の住居を、この港の中心部波止場に定める。
次郎長はそれまでの巴川の住居を引き払い、清水受新田422の3という地番に2階建の船宿「末廣」を開業した。巴川の浜通りから、向島波止場への引越である。船宿の経営は3代目おちょうが切り盛りし、次郎長は「波止場のおじいちゃん」と呼ばれて近所の子供たちを集めて相撲を取らせるのを楽しみとした。末廣開業に当っては、山岡鉄舟が一役買って出て、引出物のセンス1000本に署名したという。
 船宿末廣は、清水港を訪れる人達の迎賓館(ゲストルーム)であった。当時、横浜と清水を結ぶ海上1日半の航路には、静隆社の静岡丸や第二福沢丸などの蒸気船が就航しており、船客たちはこの船宿を江尻や静岡などへの中継点としていた。
石垣づくりの船着場のすぐ前にあった末広は、当時としては波止場唯一の船宿で、海軍士官候補生たちは、練習艦に乗って清水 港に入ると、次郎長の武勇談を聞くため末広を訪れたといわれる。
 後に日露戦争で軍神といわれる活躍をした広瀬武夫小笠原長生もその仲間で、小笠原の著書『大豪次郎長』には若い時の武勇談を熱っぽく語る次郎長が活写されている。


   次郎長はこの末廣の一室で、明治26年6月、74歳の生涯を終える。
ちょうどその頃、徳川慶喜は清水港の写真を2点撮っている。その1枚が左の写真で、中央左手の2階建の家が次郎長の住居 「末廣」である。慶喜は明治元年から明治30年まで静岡に住んだが、その間、絵画、写真、囲碁、謡曲、狩猟など趣味の世界に没頭した。中でも投網や釣など船遊びに熱中し、清水港を頻繁に訪れている。次郎長は新門辰五郎 の依頼で、その身辺警固に関わった。
 次郎長と慶喜の交流には様々な言い伝えが残されている。次郎長が亡くなる前の病床に、慶喜が自分の主治医を差し向けたとの証言もある。明治26年のことで、ちょうどその頃撮影されたこの写真は、また草創期の清水港の姿を裏づける貴重な記録でもある。

  

今回、復元の話が持ち上がったのは一昨年夏、次郎長ファンでつくる「次郎長翁を知る会」(竹内宏会長)が、
同市鶴舞町の民家で、「末廣」で使われていた大黒柱や床の間、鴨居(かもい)などの部材を確認したのがきっ
かけで、市も知る会らの要請で復元事業を予算化した。                         

次郎長の晩年の宿「末廣」の発見から現在位置への移築復元にいたるまでの経緯を「次郎長翁を知る会」が詳しく記述しています。「会報11号」「会報12号」の特集をご覧ください。

 完成した「末廣」は木造かわらぶき和風二階建てで、延べ床面積221平方・。施設内には次郎長ゆかりの
品や各界の著名人が著した次郎長関連書籍類などを展示。次郎長グッズの他、晩年の次郎長のエピソードたっぷ
りの「指まんじゅう」と抹茶のセットや、久能のいちごのジェラードなどの新名物も販売されている。    

           入場料は無料。休館日は毎週月曜日



● 写真は館内の様子。展示ケースの中には次郎長の晩年の肖像画、徳川慶喜公より拝領の熨斗目(のしめ)の礼服などが展示されている。




● 写真は館内の様子。一階の居間には鉄舟寺保有の「次郎長の木造」、そして英語塾を
開講し外国人教師が子供に教えている様子を表現した人形も展示されている。
この居間で休憩をとることが出来ます。





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