| 咸臨丸と壮士の墓 |
壮士墓の由来
咸臨丸(かんりんまる)とは

咸臨丸は徳川幕府が開国による近代的海軍の必要から、オランダに注文して造らせた第1号蒸気軍艦である。船体はクリッパー型、推進器は現在のようなスクリューである等、新技術で建造された。大砲は12門。
船尾から船首第2傾檣先端まで約50メートル。排水量630トンの武装商船スタイルであった。万延元年(1860)日本修好通商条約がワシントンで調印された際、その使節団の副使を日本船で派遣し、あわせて乗員の太平洋横断訓練をおこなった。日本で初めて、太平洋を横断し、米国に行ってきた船こそ、軍艦、咸臨丸で、艦長は勝海舟であった。乗組士官の半数近くが静岡県となんらかの関係をもつ。そ多くが、韮山代官所の配下で、ジョン万次郎も、咸臨丸で渡ったその1人であった。
清水港咸臨丸事件
咸臨丸のエンジンは、はじめから調子が悪く、小笠原調査後、2〜3年でエンジンをおろし、純帆船として明治維新の戦争をむかえたのである。
品川沖に集結した幕府艦隊は脱走。慶応4年8月19日(1868年10月4日)の深夜から翌20日未明にかけての出来事である。東京湾を出きらないうちに咸臨丸は岩礁にふれ、なんとか岩礁をはなれることができたが22日、台風にあう。船首の三角帆2枚を破損し方向を保つことがむずかしくなり、損傷はげしい咸臨丸は脱走不可能と判断され9月2日、清水港へ入った。咸臨丸は器材を陸あげして港内に停泊した。乗員は三保の民家などに宿泊したので地元住民は大変迷惑した。咸臨丸が清水港に逃げこんで来たのは徳川本家の存続が府中藩として公表されてから4ヵ月、藩主が駿府に到着してから17日目。藩の命令を無視して品川を脱走した者達がやって来たのである。府中藩の迷惑も想像できる。勝海舟の投降も説得も聞き入れられず、新政府への工作も失敗。9月14日討伐隊は品川を進発した。富士山・飛竜丸・武蔵丸の3隻の討伐隊は9月18日の昼まえ、清水港に入港。無益な殺傷事件が起ったのである。
壮士墓(そうしのはか)
新政府の討伐隊は10間(18メートル)の至近距離から各艦5〜6発うった。咸臨丸は府中藩の説得を「承伏」しており、戦うつもりはなく、降伏のしるしに旗を降ろした。そして砲撃は中止され、武蔵丸は近づき、飛竜丸は「乗り付け」士官が指揮して乗り移って来た。そこで不幸な斬りあいが始まってしまった。あっけなく勝負がついたのだが、斬りあいが終っても艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。討伐隊の艦長に無益な殺傷を禁じられ、やっと静まったと言われている。
討伐隊が去って数日。港は死臭でたえられなくなった。討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。
賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから誰もおそれて手をくださない。清水次郎長は、港内各所に流れついた死体を夜集め、こっそり無縁墓地に埋めた。現在の壮士墓の場所である。死体収容にあたり、次郎長は「人の世に処る賊となり敵となる悪む所唯其生前の事のみ若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と言ったと言う。のち、山岡鉄舟がその志に感じ「壮士墓」と書いて与えた。
今も人々は
次郎長の処理した死体は7体であった。その筋の取調べが終り、年の内に梅蔭寺で戒名をつけてもらった。
死体収容の真の動機は何にか、もうわからない。海からの使者は、生前の身分に関係なく、平等に供養する海のしきたりに従って、次郎長は咸臨丸の戦死者をほうむった。住民の生活を守るため処罰覚悟で死体をかたずけた。ただ、その事実がいつも人々の心をさわやかにしてくれる。
山岡鉄舟の筆になる石塔が建ったのは3回忌の頃と思われる。将来の清水港の発展を考えて、記念碑だけは他の景勝の地を選んだ。清水市興津清見寺境内にある咸臨丸殉難の碑である。昭和25年(1950)壮士墓のある築地町に住む山梨浅吉ら有志が墓のかたわらにお堂を建てた。
9月18日の祥月命日には地元築地町の人々によって毎年供養がおこなわれている。
清水地区まちづくり推進委員会
次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
「次郎長翁を知る会」への入会方法なども こちらへどうぞ
『次郎長翁を知る会』HOME / 最新情報 / 船宿『末廣』/ 次郎長物語 /清水次郎長/静岡異才列伝/次郎長テスト/ お問合せ /