維新後は開墾に尽力
   新番組の隊長格で駿府藩幹部
     


● 松岡萬     

   「東海遊侠伝」の中に松岡萬がさる料亭の二階で次郎長と会う、というくだりがある。
 子分たちは親分がひっくくられるのではないかと心配し、梯子を掛けて二階の動静をうかがったが、次郎長は目で合図して、心配いらんぞと彼らを制した。
 なぜひっくくられるかもしれないと心配したかというと、当時の次郎長は官軍御用で、駿府周辺の治安を預かる警察署長のような役割をしていたのだが、徳川家が駿府藩70万石として存続することになり、再びこの地域が徳川駿府藩の管轄となった。このため、駿府藩幹部から薩長の手先ではないかと、色眼鏡で見られていたからである。
 松岡萬は、将軍徳川慶喜護衛の精鋭隊隊長格。慶喜が謹慎のため駿府に来てから隊の名は新番組となるが、その隊長格といえば、駿府藩の幹部の一人だ。
 いくら次郎長が港の実力者で、大勢の子分を従えているといっても新番組は一騎当千の武士をよりすぐった文字通りの精鋭隊。抵抗してかなうような相手ではない、と次郎長は初めから考えていたのであろう。
 何の目的で松岡萬が次郎長を料理屋の二階に招いて会談したか、について触れる前に松岡萬のプロフィルを紹介しよう。
 松岡萬は天保9年、代々鷹匠組頭をつとめる家に生まれた。名前の萬は「つもる」とも「よろず」さらに「むつみ」とも読む。昔の人の名前は変幻自在だ。佐久間象山が「しょうざん」であるのか「ぞうざん」であるのか、定説はなく、どちらも使ったらしい。
 幕末史を彩る人物たちのなかで、松岡萬ほど変わった奇行の持ち主はいない。幕臣でありながら熱烈な尊王論者で、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の片腕を小塚原の刑場から盗み出し、神棚に供えて祀ったという。
 このエピソードは「随筆頼山陽」(市島春城著、早大出版部刊)に記されている。この随筆には、萬のプロフィルを「学問もあり剣術にも長じ、骨格魁偉、膂力衆に勝れ」と描いているが、残された写真を見ると骨格魁偉というのは当たらない。しかし剣の方は、飛び抜けた腕前を持っていたらしい。
 その証拠に、文久3年、浪士組清川八郎暗殺事件の直前、窪田治部右衛門とともに浪士取締役に抜擢されている。
 維新後は慶喜に随行して軍艦蟠竜丸に乗り、清水港に上陸。慶喜が謹慎のため宝台院に入るのを見届けた上で、新番組隊長格として駿府藩幹部をつとめ、中条金之助らと牧之原開墾に力を尽した。さらに、新門辰五郎の協力を得て、磐田郡幸浦湊浜(福田町)の製塩事業もすすめた。それらの関係から、地元農民に「松岡さま」と感謝され、磐田市の地主神社と岡部町の松岡神社の二社にまつられている。
 ところで、次郎長と松岡萬は何のために料亭の二階で会談したのであろうか。
私は明治元年12月18日に起きた三保神社神官太田健太郎暗殺事件をめぐってではないか、と推測する。太田健太郎は駿州赤心隊員として慶喜征討軍に加わったばかりでなく、明治元年9月の咸臨丸事件の際、艦から脱出して逃れようとする乗組員を砲撃し、幕臣たちの強い怨みを買った。暗殺の下手人は、複数の幕臣であった。
 次郎長は事件の直後、太田健太郎の妻や幼い遺児らを守って三島大社神官矢田部盛治のもとに送り届け、さらに神官職を太田家が継承できるよう、矢田部の依頼を受けて動いている。こうした行動は、幕臣たちの誤解を招いたのである。  二代目おちょうが久能寺にたむろする幕臣に殺されたという事件は、この誤解にもとづくものだと思う。久能寺にたむろしていたのは、新番組の隊士たちであり、その代表として松岡萬は次郎長に文句をつけようとしたのだ。

 産経新聞       平成11年3月24日     『文化』より



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