浪士取締役で柔術も抜群
   次郎長を投げ飛ばした男
     


● 窪田治部右衛門(くぼたじぶえもん)     

   次郎長を投げ飛ばしたという武士がいる。
 明治になってからの話だが、投げ飛ばしたと伝えられるのは窪田治部右衛門という人物。移住幕臣の一人であり、清水市駒越の駿河湾を見おろす万象寺の墓地に眠っている。子孫に当たる作家広津和郎が「おもいで」と題する随筆にそのエピソードを書いているので紹介しよう。(左写真が万象寺の参門)

 「その老人(窪田治部右衛門)は何かのことで清水の次郎長の仔分(みうち)の若い者を叱りつけた。そのことで次郎長がその老人の邸宅にやって来たというのである。因縁をつけに来たのだろうと思う。
 次郎長が庭から入ってきて、縁側に腰をかけて、何か老人に言い始めた。と、老人が『無礼者!』と叫びながら縁側に飛び出したかと思うと、次郎長の身体が庭にもんどり打ってひっくり返ったというのである。」  ふつうなら、ここで次郎長が反撃に出てドンパチが始まると読者は期待するかもしれないが、さにあらずで、広津は「おもいで」をこう続ける。
 「ところが、次郎長もさる者で、ひっくり返りながら、にこやかに起直って、『や、これはわっしが悪うござんした』とか何とか言って、今度は庭の土間に両手をつきながら、再び交渉を開始したという。そこで話は円満に解決したそうである。」
 次郎長は山岡鉄舟、関口隆吉はじめ多くの幕臣とつきあったが、このエピソードは中でも異色のものだ。筆者はかつて幕臣杉浦梅潭の日記に接する機会があったが、窪田治部右衛門の名は、杉浦日記の文久3年あたりに頻繁に登場したことをおぼえている。そこで改めて拙著「最後の箱館奉行の日記」を読み返してみると、文久3年(1863)4月13日に起きたあの浪士組の巨魁清河八郎暗殺事件をめぐって、山岡鉄舟、高橋泥舟、松岡萬、中条金之助らと並んで、窪田治部右衛門の名が繰り返し登場するのである。
 文久3年といえば尊王攘夷の嵐が吹き荒れた時期。幕府は毒を以て毒を制する手法を踏んで諸国の浪士を集め浪士組を結成、暴徒を制圧しようとした。その浪士組の取締に抜擢されたのが、山岡、高橋、松岡、中条、窪田らで、いずれも剣を持たせたら飛び抜けて腕の立つ者ばかりである。それでなければ暴れ馬を制することなどできはしない。
 浪士取締役の一人、窪田治部右衛門は剣ばかりではない。抜心流柔術の師範の家に生まれ、柔術もずば抜けた腕前を持っていた。文化9年生まれだから、次郎長よりも8歳年上で、投げ飛ばしたエピソードは明治初年のことだから、だいたい60歳前後の老人だったわけである。
 万象寺の墓石の裏面をとった拓本を、清水郷土史研究会の松浦元治さんから見せてもらったことがある。治部右衛門は清川八郎暗殺事件のあと、「お役御免」となるが間もなく復活し、九州日田(大分県)の代官をつとめて明治維新を迎える、万象寺の墓には隣り合わせに、長男泉太郎の墓が並んでいる。泉太郎は鳥羽伏見の戦いで戦死した。アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」に「大君の洋式訓練部隊の指揮者」として登場する。
 ところで投げ飛ばした治部右衛門と、投げ飛ばされた次郎長は、その後すっかり仲がよくなり、明治12年にアメリカ前大統領グラント将軍が清水港に来航したとき、地元を代表して二人は共にその接待に当たった。
 右の史実は、清水でも意外なほど知られていない。

 産経新聞     平成11年3月17日  水曜日    『文化』より



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