新聞記者、得度、歌人、書家…
   明治17年「東海遊侠伝」出版
     


● 愚庵天田五郎(あまだごろう)その3     

   五郎が次郎長のもとを離れた明治17年、東京・神田の与論社から「東海遊侠伝」が出版された。初版本はいま数十万円の値段がつく。「一名次郎長物語」と副題にうたったこの本の巻末には、1ページの広告がのせられていた。広告には行方不明の父平太夫、母なみ、妹のぶの名があげられ、もし3人の居所をお知らせくだされば「金百円進呈」と懸賞金をつけている。
 生涯をかけて探し求めた父母妹の行方は、このようにしても知れなかった。次郎長のもとを去った後、有栖 川家に奉職、さらに関西へ行って大阪内外新報社に入社し新聞記者となる。
 遍歴の生活を送る五郎に、山岡鉄舟は言った。
 「外に父母の姿を求めるよりも、汝の内に求めよ」
 鉄舟は禅の道に入ることを強く勧め、京都林丘寺の滴水禅師に五郎を引き合わせた。明治20年、五郎は滴水により剃髪得度し、名を鉄眼と改めて禅僧となった。得度するとき、滴水が五郎に与えた書には、「須(すべからく)大愚に至るべし」と書かれている。後の愚庵の号は、ここからきたものだ。
 天田五郎の足跡は、清水港が6年間、京都は出家してからの17年間である。京都では歌人として、また書家として名高い。京都三年坂に庵を結んで住んでいたころには、正岡子規と交友を重ね、歌詠みに与える書などで和歌の改革をとなえていた子規に大きな影響を与えたといわれる。
 斎藤茂吉の「愚庵和尚の歌」から拾ってみよう。

 生まれては死ぬ理(ことわり)を示すちふ
 沙羅の木の花美しきかも
 ちちのみの父に似たりと
人の言ひし
 我が眉の毛も白くなりにき

 明治26年6月、一度は親子のちぎりを結んだ次郎長が亡くなった。そのころ愚庵和尚は北海道へ旅行をしていた。いわき市の愚庵研究家柳内守一氏によれば、北海道からの帰途、彼は清水港に立ち寄り、次郎長の供養を行ったという。
 次郎長の葬儀は参列者数千人という盛大なものだったが、導師をつとめたのは、梅蔭寺の住職の萬休宜哲(ぎてつ)和尚である。愚庵は、紀州(和歌山県)田辺近在の円鏡寺出身の萬休和尚と、言葉を交わしたらしい。
 愚庵はこの年9月、西国33ケ所巡礼のたびに出た。次郎長菩提のためであることは、いうまでもない。この旅の紀行として残された名作「巡礼日記」の書き出しは、次郎長が亡くなった「明治二十六年六月」という年月がわざわざ入れられている。
 ところで未亡人となったおちょうさんも、明治26年に西国33ケ所をまわっている。巡礼日記のような記録はないが、梅蔭寺次郎長資料室所蔵の資料に、おちょうさん自筆の西国33ケ所のご詠歌が書き留められ、半紙をとじた表紙には「明治二十六年十月吉日、山本ちょう」とはっきり記されている。
 愚庵が出発したのは9月24日、田辺では円鏡寺に立ち寄り、萬休和尚の兄弟子態嶽和尚をたずねている。
 生々流転の生涯を終えるのは明治37年1月。一切の世俗的しきたりを拒否する遺言書は京都大学に所蔵されている。

 産経新聞     平成11年3月10日   『文化』より



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