父の仇討ち、次郎長の子分に
   計数に明るい名「中盆」
     


● 増川仙右衛門(ますかわせいえもん)     

   梅蔭寺の次郎長の墓とならんでいる子分の墓は、大政、小政、仙右衛門の3人。3人とも名前の上に侠客とつけられ、お揃いの大きさの伊豆石で建てられているが、もともとは四角だったはずの墓石は、ぼろぼろに欠けて丸くなってしまっている。長い年月の間に自然に崩落した部分もあるが、ほとんどは人為的に欠かれたためである。
 欠いた墓石を持っていると勝負事につくというので、ギャンブラーたちが欠いていく。そのために丸くなってしまったのだが、中でも、仙右衛門の墓が一番効くと、ギャンブラーたちの間では言われてきたらしい。
 なぜかはわからないが、武勇談には事欠かない大政や小政にくらべて、仙右衛門の方は地味だ。その代わり仙右衛門は計数に明るかった。ルーレットでいえばディーラーのように、サイコロ賭博のキーパーソンは中盆と呼ばれる。大勢の張り方の当たりはずれを、頭の中で瞬時に集計して配当をつける。それを手際よくやるには、並はずれた計算能力を要求される。駄目な中盆は「盆暗(ぼんくら)」だ。仙右衛門は、つまり反対の「盆明(ぼんあか)」だったのである。大きな賭場が立つかどうかは、誰が中盆をつとめるかによるらしい。
 仙右衛門は出身地を名前の頭につけて増川の仙右衛門と呼ばれる。増川はかつての富士郡須津村の内、今は富士市内の地名である。
 天保7年(1836年)、宮下佐次郎の長男に生まれた。父佐次郎は、戸籍の記載には「駿河国富士郡増川村百姓」(勝瀬光安遺稿より)とある。田畑持ちであると同時に、ばくち打ちの貸元、つまり土地の親分であった。
 仙右衛門が36歳の時、縄張争いのことから、父佐次郎が、伊豆の金平親分の子分、竹之助、民五郎、力松、亀吉ら17人に襲われ、殺害された。
 金平というのは、「東海遊侠伝」にも登場する人物で、石松をだまし討ちした吉兵衛の味方、つまり次郎長の敵であり、沼津から船に乗って清水を襲撃しようとしたことがある。この時は次郎長に一喝されて逃げ帰っている。
 父親を金平一党に殺されたとき、仙右衛門は、伊豆の子浦にいたが悲報を聞いて増川村に帰った。仙右衛門は決して腕の立たない男ではない。
 伝えるところによると、清水一家の中でも指折り数えられる一刀流の使い手という。
 同じ増川村に松下又右衛門という韮山代官の下役をつとめる人物が道場を開いていたので、そこに通って腕を磨いた。この一刀流修行のことと、佐次郎の子分、辻勝こと今泉の勝五郎とともに、父の仇を討つことは、今では稀覯本(きこうぼん)となっている「実説次郎長物語」(河原井喜久雄・昭和14年刊)に記されている。
 この本は、日中戦争のさなか、最前線で戦う兵士に慰問袋へ入れて送るため、「勝運のお守」といっしょに作成されたものである。次郎長の武勇談というものが、前線の兵士の士気を鼓舞するのに役立つとみられていたのだろうか。
 ところで、仙右衛門は父の仇を討つため、次郎長に加勢をたのみ、竹之助らを討ちとって首尾よく念願を晴らした。
 これを機に次郎長の子分となって清水に移り住む。明治の戸籍簿には、「清水湊美濃輪町六十弐番屋敷当町坪井徳太郎所持地」と住所が記されている。そこは巴川西岸の松井町にあり、住居跡は釣舟店、裏手の溝を地元では「仙右衛門どぶ」と呼んでいる。
 仙右衛門は次郎長より1年早く、明治25年8月6日、57歳で没し、日蓮宗妙慶寺に葬られた。法名の「清心院信敬日玄居士」の居士号は、岩渕町の田辺幸蔵、その女婿、鈴木幸太郎による追贈である。

 産経新聞     平成11年6月16日  水曜日     『文化』より



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