荒神山の決闘など多い武勇談
   大きな体、温厚な人柄
     


● 大政(おおまさ)     

   清水みなとは鬼よりこわい、大政小政の声がする―とうたわれたように次郎長の子分の中でも大政はナンバーワンである。
 次郎長の後継者として、山本政五郎の名で入籍し養子となっている。あの虎造の浪花節でも「本名、山本政五郎」だ。身体が大きかったので大政と呼ばれた。梅蔭寺の次郎長遺物館には次郎長と大政の着た胴着が並んで展示されているが、大政のは次郎長のより遥かに大きく、特大のLLである。
 次郎長研究家の勝瀬光安氏(故人)によれば、大政は常滑(愛知県)の廻船問屋の長男に生まれ、実名は原田熊蔵という。よく言われるような武士の出身ではなく、本来なら回漕店の経営者となった男だ。人柄は温厚で、子分たちの間でも人望があつかったようである。
 体格が大きかったばかりでなく、パワーも人並みはずれていた。数多くの武勇談があるが、中でも荒神山(三重県)の決闘で敵将門井門之助を討ち取った話しが有名だ。
 慶応2年4月、縄張り争いに決着をつけようと荒神山に対峙した両軍、安濃徳一派の総勢は130人、大政と吉良の仁吉が率いる清水一家は22人。敵の銃弾に倒れた仁吉を助けようと大政が走り寄る途中、石につまずいて転倒、それを見た敵将門之助が、刀をふりかざして襲いかかる。門之助は浪人あがりの剣客だ。
 大政は身を起こす暇もない。門之助の太刀が振り下ろされる正に間一髪のところで、横になったまま手にする槍を突き上げた。槍先が当たって門之助が両足をあげて引っくりかえる。起き上がった大政が2度めの突きを入れると、槍先は門之助の股間から背中に突き抜け、串刺しとなってしまった。
 大将を討ち取られて安濃徳側は戦意を失い、散り散りになって逃げ去ってしまう。圧倒的多数の敵を大政の一突きで破ったのである。しかし清水一家の方も、この戦闘で仁吉をはじめ法印大五郎や幸太郎を失った。
 明治のはじめ、次郎長が市中警護役として警察署長の役目についた頃、住居は上一丁目、大政もすぐ近所に住んでいた。2代目おちょうが、次郎長の留守中白昼、浪人らしい男に刺し殺されたのは、明治2年5月のことだが、犯人を追って子分たちが追いかけ回すなど、その時の惨劇はひと昔前まで土地の人たちの語り草になっていた。
 大男だった大政は、明治14年2月15日、病気のため50歳という若さで亡くなり、次郎長の菩提寺である梅蔭寺に葬られた。戒名は「大然宜政上座」。葬儀には高萩の万次郎、紬の文吉など次郎長と親交のあった親分たちが列席している。東京浅草の写真師、江崎礼二の門下に入り、旅の写真師となって諸国遍歴していた天田五郎も駆けつけた。彼は大政亡きあと次郎長の養子となり、山本五郎として入籍している。
 大政には小三郎、まさ、なかという3人の子どもがいた。長男、子三郎は明治34年11月に亡くなり、梅蔭寺にある大政の墓の後に眠っている。
 長女まさは静岡市の呉服商、豊田栄次郎に嫁いだ。酒も強く、困った人には自分の着物を質入れまでして助けたという気っぷの人だったようだ。昭和の初め、梅蔭寺に嫁いだ田口はなの話によれば、まさは小三郎の墓参りで梅蔭寺に来たことがあるが、切り髪の上品なおばあさんだったという。
 まさの子、つまり大政の孫に当たる長吉は静岡市で鉄工所を創業した。大政に生き写しで、大政を見たければ長吉を見よといわれたそうである。まさは昭和7年9月、長吉は昭和45年1月に没し、ともに静岡市宝台院に葬られている。長吉が創業した鉄工所は隆々発展し、豊田精機株式会社となった。

  産経新聞    平成11年6月9日 水曜日    『文化』より



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