夫次郎長より17歳年下三河西尾藩士の長女
   『侠客寡婦物語』を残す
     


● 三代目 お蝶(おちょう)その1     

   頼みなき此世を後に旅衣
 あの世の人にあふぞ嬉しき

 これは三代目お蝶さんの残した辞世である。三十一文字の中のあの世の人とは、いうまでもなく亡き夫、次郎長のことだ。
 「お蝶」という表記は後世のの人が当てたもので、本人の書いたものには、「チャウ」とか「チヨ」が使われている。次郎長が亡くなった4ヶ月後の明治26年10月、西国33箇所巡礼の旅に出るが、その時携行した自筆のご詠歌帖には「山本チャウ」と署名している。
 この人は武士の娘で教養も相応に高く、異才列伝というよりは、才女列伝に加わるべき人かもしれない。
 履歴書ふうに記すと、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。先年物故された清水市史編さん委員、勝瀬光安氏の遺稿によると、「明治二十年七月編製戸籍簿仮綴」なるものには次郎長のもとへの入籍が「慶応三年九月」と記載されているが「明治三年の誤りであろう」と勝瀬氏は但し書きをつけている。先妻の二代目お蝶さんが白昼危難に遭って命を落としたのが明治2年であるから三代目の入籍が慶応3年であるはずもなく、勝瀬氏の指摘が正しいといわなければならない。
 五十の坂を越えた次郎長と結婚した時、三代目お蝶さんは33歳である。大政、小政、仙右衛門など大勢の子分を抱える一家の切り盛りは容易なことではなかったろう。
 明治17年2月、次郎長が全国一斉博徒刈込に引っ掛かって検挙された時、彼女は詳細な覚え書を書き残している。その時には次郎長の生家高木家と親族会議を開いたり、後継者の入谷清太郎を急ぎ上京させて、天田五郎を呼び寄せるなど気丈に事後処理に当たったことが記録されている。
 嫁に来た時は、二代目が危難に遭った上一丁目の家に住んだが、明治10年には美濃輪の巴川畔に2階家を新築移転、さらに次郎長が釈放された明治19年、当時新しく港湾整備が進められていた波止場に船宿「末廣」を開業し、次郎長とともに移り住んだ。
 次郎長との間に子がなかったので、自分の姪に当たる明治9年生まれの山下けんを養女として入籍した。
この人が次郎長の正式の跡目となる。
 さて、お蝶さんには有名な「侠客寡婦物語」がある。明治42年報知新聞附録にお蝶さんの聞き書として連載されたもので、次郎長のふだんの生活ぶりや、臨終の時の様子を「六月十二日のちょうど正午頃、泣きの涙にオロオロする私の手を固く握って、そのままで眠りましたのでございます」などと語っている。
 明治26年次郎長が息を引き取ったのは、船宿末廣の一室だが、生前ここには日露戦争で武勲をあげる海軍士官候補生、広瀬武夫小笠原長生などが、次郎長の若き日の武勇談を聞くために訪れた。お蝶さんの談話によれば、「末廣は海軍の定宿みたいなもので、向山さん(海軍中将、向山慎吉)や出羽さん(海軍大将、出羽重位遠)ばかりでなく、県知事(関口隆吉)や裁判長などもよく訪れた」という。関口隆吉の長男、新村出も静岡中学(現静岡高校)時代に来訪している。
 次郎長没後も末廣の営業はお蝶さんの手で続けられた。いつの年か不明だが富岡鉄斎がここに泊まり、一筆で勢いよく描いた富士山の絵が、お蝶さんの子孫の家に残されている。彼女は81歳の高齢で大正5年に亡くなった。子孫とはお蝶さんの実子入谷清太郎を祖とする入谷家である。次郎長愛用の刀をはじめ、その遺品のほとんどは入谷家所蔵のものだ。

                                       (つづく)  産経新聞     平成11年4月28日      『文化』より



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