浪士組中心人物の1人
   大人物の裏に山師的性格
     


● 石坂周造     

   東京谷中の全生庵といえば、元首相の中曽根康弘や政財界人が参禅するので知られる禅寺だが、その墓地に山岡鉄舟の墓と並んで松岡萬、石坂周造、村上俊五郎の墓がある。いっしょに眠っているのは、いずれも維新後、静岡に移住した人物たちだが、幕府が倒壊する5年前、尊王攘夷運動がピークを迎える文久3年(1963年)には、4人とも「浪士組」のメンバーであった。
 もっとも山岡鉄舟と松岡萬の2人は、幕臣として浪士組を取り締まる側であり、石坂周造と村上俊五郎の方は、幕府の募集に応じて参加した浪士であった。
全国から集まった浪士の数は2百名を超えるが、中でも石坂周造は清川八郎と並ぶ浪士組の中心人物の1人であった。
 あの文久3年4月13日に起きた清川八郎暗殺劇の直後、石坂は現場の赤羽橋に駈けつけ、清川八郎の首級を山岡鉄舟の邸に届けたと伝えられている。この暗殺劇は幕府の仕組んだもので、事件のあったその日に、石坂周造と村上俊五郎の2人は電光石火の早わざで検挙された。同時に山岡鉄舟、松岡萬の2人も「御役御免差控」となって暫く表舞台から姿を消したことは、「窪田治部右衛門」の章でふれた通りである。
 維新後に釈放され静岡に移住した石坂周造は鉄舟の妻の妹けいと結婚、高橋泥舟とも義兄弟の間柄となった。ちなみに村上俊五郎の方は勝海舟の妹と結婚した。
 「相良史」には、石坂周造は「石油王」として記されている。前回ふれたように、石坂は村上正局による相良油田発見の報を聞いて明治5年5月、相良に来てその事業化を進めようとした。米国でロックフェラーが石油採掘を先端ビジネスとして開発したのがちょうどそのころ。わが国ではようやく菜種油に代わる照明用の灯油として、石油が注目されはじめた時代である。
 剣術の腕前が売り物、横浜開港を実力行使で阻止しようとした過激攘夷派の浪士が石油開発とは奇妙な取り合わせだが、石坂にはもともとベンチャー経営者の素質があったのかもしれない。もっとも相良石油は、会社組織(東京石油会社)をつくって、初めは海老江地区、次いで菅ケ谷地区で採掘を進めたものの、採算的には失敗に終わり、債務の償還のため義兄の山岡鉄舟は莫大な負担を余儀なくされた。
 「相良史話」によれば、連帯保証の債務は26万円に達し、鉄舟が侍従として明治政府に仕えた月給350円のうち250円を、亡くなるまでの十数年間も差し押さえられたという。それでも周造は平然として鉄舟の家に出入りしていたので、義姉の鉄舟の妻松子はあぜんとしたとも伝えられる。このエピソードひとつを見ても、石坂周造はよくいえばスケールの大きい、悪くいえば山師的な人物だったといえよう。
 天保3年(1832)の生まれ。菅山村の石油坑跡の坂上にたてられた「正七位石坂周造君記念碑」の碑文には江戸両国で生まれたとされているが、文久3年浪士組結成のさいの候補者名簿(「杉浦梅潭文書・浪士一件」)には下総(千葉県)となっている。医師宗順を名乗っていたので、この名簿には石坂宗順とあり、文久2年逮捕入獄し、同年11月に出牢したと記されている。逮捕されたのは、清川八郎の町人無礼斬りに関わったことによる。
 明治5年から始めた相良油田の採掘事業は、たてられた油井が百を超え、最盛期には年間採油量2、841石売上高23、737円(明治16年)に達している。次郎長は、明治7年に始めた富士裾野開墾に並行して石油開発にも協力し、たびたび清水港から相良に足を運んだ。

  産経新聞        平成11年4月7日   『文化』より



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