没後10年新聞短評 福沢諭吉らと登場
   「男の中の男一匹」
     


● 清水次郎長(しみずじろちょう)     

   次郎長を一言でいうと、どうなるか。
 まだ講談にも浪花節にも映画にも登場しない明治36年。次郎長没後10年という時期、さる大新聞が催した「千人評」なるものに乃木大将や福沢諭吉と並んで次郎長が登場した。
 それにはわずか2行で、「さあ来いと富士を背中に背負って立つ、男の中の男一匹」と短評がつけられている。以来、100年近い間、映画だけでも200本近く、小説、評伝の類も50は超えるが、次郎長ものを総括すれば、その魅力は「男の中の男一匹」という一言に尽きるだろう。
 そもそも原点は、ご存じ「東海遊侠伝」。「次郎長ハ実名山本長五郎、静岡県駿河国有度郡清水港ノ人ナリ」で始まるこの本は、戊辰戦争で行方不明となった父母妹の行方をたずね諸国遍歴をする天田五郎が、次郎長の家に寄留していたときに書き、明治17年に出版したものだ。
 これを講談に仕立てたのは神田伯山。明治40年、東京両国の福本亭で初めて高座にかけられると当たりに当たって「八丁荒らし」の異名をとった。子分の28人衆は、伯山の創作である。
 旅行けば、駿河国に茶の香り―で始まる浪曲は、広沢虎造。「食いねえ食いねえ、鮨を食いねえ」という石松のセリフは昭和戦前、ラジオの電波に乗って全国の茶の間を席巻した。
 ところで、次郎長74年の生涯は、ほぼ三等分される。前半の悪がき時代はさておいて、腕と度胸で活躍する渡世人時代は25歳から49歳まで。明治維新からの後半生は、「世のため人のため」をテーマに生きた。
 「さあ来い」という格好よさにくらべて、明治の次郎長は咸臨丸事件にはじまり、富士裾野開墾、石油発掘、英語塾など、地味だが奥行きは深い。
 三保村の川口源吉青年は次郎長英語塾出身。明治のはじめ、横浜からひそかに外国船に乗り込み、ハワイへ渡った。船中では、英語塾で習い覚えた英語が頼りだったという。ハワイで成功した彼は明治20何年かに三保村へ帰り、体験談を近所の者に語った。それが呼び水となって、三保村からのハワイ移住者は数千人にのぼった。源吉青年の生家は今でもハワイさんと呼ばれる。
 次郎長は山岡鉄舟や松岡萬をはじめ、幕臣たちと交友が深かった。新井幹もその一人で、彼は私塾明徳館を成就院という次郎長の住居に近い禅寺の中に開いていた。英語塾は、その教室を使ったと私は推理している。幹のご子孫の新井昭二さんが当時の英語教科書を所蔵していることも、その裏付けとなる。
 次郎長の交友をたどっていくと、幕臣をはじめ実にさまざまな人物が浮かびあがってくる。
 関口隆吉もその一人で、静岡県知事時代に「静岡県を猫にたとえると、清水港はその口で、口に栄養を与えなければその将来はない」と次郎長は説いた。清水港のインフラ整備にも一役買ったのである。
 つい最近のことだが、次郎長が晩年経営した船宿「末広」を、徳川慶喜が撮影していることがわかった。将軍と侠客の出会いを橋渡ししたのは、新門辰五郎である。

 産経新聞  平成11年(1992年)2月3日水曜日 『文化』より



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