「清水の次郎長」は、どんな人物か

 

清水港の名物はお茶の香りと男伊達。若い人にはちょっと古くさいと笑われそうだが、やっぱり清水と言えば次郎長親分。この人をおいて清水を代表する人物は他にはいないだろう。

浪曲などの噺では有名だけど、本当に実在した人物なのだろうかって?

そりゃーちゃんと実在した人だよ。

以下の写真や肖像画、あるいは伝説にも残されているように、幕末から明治維新期にかけて東海道、そして清水の港を舞台に生きたひとかどの人物であったことは間違いない。


- では次郎長を一言でいうと、どうなるか -



 まだ講談にも浪花節にも映画にも登場しない明治36年。次郎長没後10年という時期、さる大新聞が催した「千人評」なるものに乃木大将や福沢諭吉と並んで次郎長が登場した。

 それにはわずか2行で、「さあ来いと富士を背中に背負って立つ、男の中の男一匹」と短評がつけられている。

 以来、100年近い間、映画だけでも200本近く、小説、評伝の類も50は超えるが、次郎長ものを総括すれば、その魅力は「男の中の男一匹」という一言に尽きるだろう。
 (左画)次郎長50歳前半時の肖像画とみられる。
への字にしまった口。あまり語らずとも目でものを語っているようだ。


 そもそも原点は、ご存じ「東海遊侠伝」。「次郎長ハ実名山本長五郎、静岡県駿河国有度郡清水港ノ人ナリ」で始まるこの本は、戊辰戦争で行方不明となった父母妹の行方をたずね諸国遍歴をする天田五郎が、次郎長の家に寄留していたときに書き、明治17年に出版したものだ。

 これを講談に仕立てたのは神田伯山。明治40年、東京両国の福本亭で初めて高座にかけられると当たりに当たって「八丁荒らし」の異名をとった。子分の28人衆は、伯山の創作である。

 旅行けば、駿河国に茶の香り―で始まる浪曲は、広沢虎造。「食いねえ食いねえ、鮨を食いねえ」という石松のセリフは昭和戦前、ラジオの電波に乗って全国の茶の間を席巻した。


 (左画)初代銅像前に立つ広沢虎造二代目


 ところで、次郎長74年の生涯は、ほぼ三等分される。前半の悪がき時代はさておいて、腕と度胸で活躍する渡世人時代は25歳から49歳まで。明治維新からの後半生は、「世のため人のため」をテーマに生きた。
「さあ来い」という格好よさにくらべて、明治の次郎長は咸臨丸事件にはじまり、富士裾野開墾、石油発掘、英語塾など、彼のおこなったと言われる事業は地味ではあるが奥行きは深く、時を動かした大物人物との関わり合いも見のがせないものがある。


(以上、産経新聞連載『静岡異才列伝』田口英爾氏著 より一部)


 (左画)50代後半くらいのものか?


 講談、浪曲や映画などによって大衆のヒーローとなった「次郎長」。しかしそのなかでの次郎長の生涯は、清水湊の博打うちに始まり「荒神山の血煙」で東海一の大親分になったところで完結している。
「荒神山」が終え東海の大親分となったとき時代は明治を迎えていた。そして世の中が大きく変化する中、次郎長の生き方もまた大きく変化していった。 明治以降の次郎長は清水に根を下ろし行き続けた。彼の生き様は言い伝えとして、資料として港街清水にはまだまだ多く残っております。
切った張ったに装飾された世界以外に、彼が人間として生きた、浪花節では語られなかった、彼の後半生の生き方を見つめることで「男の中の男一匹」次郎長の人間としての魅力がまた大きく膨らむのではないかと思います。

 (左画)60代後半、いや70代の晩年のころくらいのものかもしれない。子供好きで、お菓子をばらまいていた好々爺の顔がある。


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