次郎長の武勇談を聞きに末広を訪ねた若き海軍士官     


● 小笠原長生(おがさわらながなり)     

   唐津小笠原家の最後の藩主長行の後嗣になり、事実上、最後の「殿様」として唐津に尽くした人物。  長生は慶応3年(1867江戸八重洲町の老中役邸で生まれ、父は老中職にあった小笠原壱岐守長行(いきのかみながみち)、母は儒者松田迂仙(まつだうせん)の末娘美和。
 明治13年(1880)に学習院に入り、明治17年海軍兵学校に入学、その後海軍大学校へ進み、明治22年には海軍少尉に任官した。広瀬武夫(後に中佐)から強くすすめられて、次郎長の「末広」を尋ねたのは23才のこのころ。  彼は文筆に優れ、明治27、28年の日清戦争に従軍し、軍艦高千穂に乗組み、黄海海戦等に参加し、戦後この時の様子をまとめた「海戦日録」によって才を高く評価される。
 明治40年(1907)、軍令部参謀として「明治37、38年海戦史」の編さん役についた時に、日露戦争時の海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得ることになり、その才を認められ、明治44年(1911)には軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となり、院長乃木希典(のぎまれすけ)大将のもとで役を務める。折しも大正元年、明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託される。この事は後に長生自身、「乃木将軍と最後の会見」という詳細な記録を書き残すと同時に、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類(中朝事実等)が遺品として長生の手元に残されている。
 大正3年(1914)には東宮御学問所の設置にあたり、7年間、皇太子(昭和天皇)の教育にある。 昭和22年(1947)より伊豆長岡に隠栖(いんせい)し、昭和33年(1958)92歳の天寿をまっとうした。 「海戦目録(かいせんもくろく)」、漢文「洗耳亭記(せんじていき)」
等三十五巻に及ぶ著述や数多くの揮毫(きごう)書を残した。
次郎長との回想記は、昭和11年著の『大豪清水次郎長』がある。

◎ 参考文献  唐津市史「末盧国」松浦史談会のホームページ
http://www.saganet.ne.jp/karatsu/matsuro/m100.html
 



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