次郎長略年譜 その時日本と世界は (田口英爾 監)
| 西暦 |
年 次 |
年齢 |
事 蹟 |
日本と世界 |
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1820 |
文政三年 |
01 |
1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれる。生家は薪炭を商う『薪三(まきさん)』。船持船頭三右衛門の次男。長五郎と名付けられ、母方の叔父、甲田屋(米穀商)次郎八の養子となる。次郎八の子の長男というので『次郎長』と呼ばれた。 |
ナイチンゲール生まれる。 |
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1826 |
文政9年 |
7 |
巨大な異国船と異国人(中国人)を目撃する。世界の広いことをしる。 |
中国の寧波(にんぽう)の貿易船『得泰号』が遠州吉田港に漂着。船体修理のため清水港に回航され、3ヶ月にわたって港内に碇泊、乗組員らが上陸する。 |
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1827 |
文政10年 |
8 |
孫四郎先生の村塾に入る。 |
01 |
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1828 |
文政11年 |
9 |
禅業寺の赤小屋で読み書きを学ぶが、いたずらが過ぎ退塾。 |
シーボルト事件起きる。 |
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1829 |
文政12年 |
10 |
粗暴な性格を直すため、由比倉沢の伯父兵吉のもとに預けられる。 |
フランス七月革命(1830)。ファラデー、電磁誘導現象を発見。ゲーテ『ファウスト』発表(1831)。 |
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1834 |
天保5年 |
15 |
粗暴な挙動改まり、甲田屋に戻る。江戸に行こうとして許されないため、百両あまりを持って家出。浜松に行き米相場で巨利を博し、清水に帰って家人を驚かす。 |
天保の飢饉・百姓一揆が激化。 |
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1835 |
天保6年 |
16 |
養父次郎八死亡。長五郎は家業の米屋に精を出す。 |
山岡鉄五郎(鉄舟)生まれる。 |
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1837 |
天保8年 |
18 |
養母、情夫と通じ家産を湯尽して家出。長五郎は妻(きわ)をめとり、家業の回復に勤める。 |
大塩平八郎の乱おこる。 |
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1839 |
天保10年 |
20 |
旅の僧、長五郎の人相を見て、25才までの寿命と予言。賭博(とばく)の出入りをはじめる。 |
アヘン戦争(1840)始まる。 |
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1841 |
天保12年 |
22 |
甲田屋に4人組の強盗はいる。長五郎これを追って重傷を負う。 |
幕府による天保の改革はじまる。 |
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1842 |
天保13年 |
23 |
6月、驀地のもつれから巴川湖畔で小富、佐平を斬る。甲田屋を姉夫婦に譲り、妻と離別して無宿者となり、清水を離れる。三河の寺津(西尾市)に行き、今天狗の治助のもとに身を寄せ、さらに吉良の武一について剣術を学ぶ。 アウトローの道に入ってゆく。 |
南京条約・アヘン戦争の終結。 |
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1845 |
弘化2年 |
26 |
遠州川崎で争いごとから負傷。傷を直して清水に帰る。津向の文吉と和田島の文左衛門が庵原川で対決しているところを長五郎が仲裁。侠客としての名声高まる。 |
01 |
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1847 |
弘化4年 |
28 |
親友の江尻の大熊の妹『おちょう』をめとり、清水し仲町妙慶寺門前に所帯を持つ。子分ら10人あまりが逗留、家計は苦しい。 |
フランス2月革命。マルクス、エンゲルス(ドイツ)の「共産党宣言」(1848) |
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1853 |
嘉永6年 |
34 |
01 |
ペリー、軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。黒船騒動。翌年の安政元年、駿河地方大地震。 |
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1858 |
安政5年 |
39 |
捕吏をのがれ、子分達を連れ、名古屋の巾下の長兵衛のもとに逗留。 12月晦日、『おちょう』病気のため死去。 |
日米修好通商条約。安政の大獄開始。 |
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1859 |
安政6年 |
40 |
久六の密告によって、捕吏の手に長兵衛が捕えられ牢死する。長五郎は逃れて寺津へ行く。六月、久六を斬り長兵衛の怨を晴らす。捕吏の探索きびしく、長五郎は大政や石松など子分を連れ、甲州、越後、加賀、越前さらに四国と長い逃避行。 |
函館、横浜、兵庫、長崎、新潟の五港が開港。安政の大獄で吉田松陰、橋本左内ら刑死。 |
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1860 |
万延1年 |
41 |
石松を四国の金比羅神社に礼参りに行かせる。清水への帰途、石松は都田吉兵衛兄弟に二五両をだまし取られた上、斬殺される。(六月一日)次郎長一家、梅蔭寺住職宏田和尚のふるまったフグに当たり、角太郎、喜三郎が死亡。 |
勝海舟を艦長とする咸臨丸、アメリカに向け出帆。 三月三日、大老井伊直弼、水戸浪士により桜田門外で殺害される。 |
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1861 |
文久1年 |
42 |
次郎長一家がフグ毒で倒れていると聞き、石松斬殺の報復をおそれていた都田兄弟は逆襲を企て、清水に向かう。都田吉兵衛らが追分で昼食をとっているところを、報を聞いた大政らが襲い吉兵衛を討ち取り石松の怨を晴らす。 |
皇女和宮、御降嫁のため京都を発つ。 |
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1862 |
文久2年 |
43 |
甲州黒駒の勝蔵ら一味は、興津の盛之助に乱暴を働くなど悪事をもって横行し、捕吏の追うところとなる。 |
一月、坂下門外の変。四月、寺田屋騒動、八月生麦事件など、尊王攘夷運動高まる。 |
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1866 |
慶応2年 |
47 |
笠砥神社(三重県)の祭礼の賭場に安濃徳ら黒駒勝蔵の一味が集まる。吉良の仁吉や大政ら清水の一党二十二人が、荒神山で血闘。大政が首魁の門之助を倒したが、仁吉は重傷、法印大五郎ら討死する。次郎長手勢四百人余を引連れて船で伊勢に渡り、安濃徳らは陳謝する。―荒神山の血闘。 |
長州征伐。 坂本竜馬による薩長同盟。翌年、慶応3年に大政奉還・王政復古。 |
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1868 |
明治1年 |
49 |
四月 駿府町奉行廃され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府治安に当たる。長五郎を召し出し、街道警固を命ずる。積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。黒駒勝蔵、池田数馬と変名し、官軍先鋒となって駿府に来る。見抜いた長五郎、勝蔵の江尻通過を拒む。 七月 浜松藩に帰る伏谷如水を子分らと送る。 江戸から海路清水港に上陸した旧幕臣とその家族ら難民を次郎長は炊出しなどで救護する。 九月十八日、幕府軍艦咸臨丸、清水港内で官軍に攻撃される。港内に浮遊する幕軍の死体を、次郎長が収容し手厚く葬る。―咸臨丸事件。 十二月、三保神社神宮太田健太郎、徳川浪士により暗殺。市中取締役の次郎長はその遺族を救護し、治安に当たる。 |
三月、有栖川宮熾仁大総督の率いる東征軍が駿府に駐屯 駿府藩成立。八月、徳川家達駿府城に入る。勝海舟、山岡鉄舟、駿府藩幹事役に。 江戸は東京となる。 徳川慶喜、駿府宝台院に謹慎。 駿府藩公議人杉浦梅澪、三保神社神宮殺人事件を中央政府に報告のため上京。 |
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1869 |
明治2年 |
50 |
二月、二代目おちょう、次郎長の留守中徳川浪士と思われる男に白昼斬殺される。子分田中啓次郎、犯人と妙音寺にて討取る。 山岡鉄舟、「壮士之墓」の墓碑銘を揮亳(きもう)する。 幕臣杉方了二(後の初代統計局長官)次郎長と会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住土族投庫の道を探る。 十二月、廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎、次郎長と会い、徳川慶喜護衛役を依頼。 |
版籍奉還。駿府藩を靜岡藩と改める。(翌年、廃藩置県) |
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1872 |
明治5年 |
53 |
01 |
幕臣村上正局、遠州相良に油田発見。新橋横浜間に鉄道開通。福沢諭吉の「学問のすすめ」 |
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1874 |
明治7年 |
55 |
向島の囚徒を使役し、富士裾野(大渕)の開墾をはじめる。県令大迫貞清は激励の歌を贈る。 半田港から清水港に進出した中埜・盛田合弁による酒の量販店「中泉現金店」開業に力を貸す。 |
山岡鉄舟の義弟、石坂周造、相良油田を事業化。次郎長が協力する。 |
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1875 |
明治8年 |
56 |
向島に波止場の建設はじまる。清水港は巴川の河口港から外海港に変身。次郎長は廻船問屋経営者たちに、蒸汽船による横浜港との定期航路開設を説く。 |
徳川慶喜の家臣白井音次郎、向島の土地二万坪を静岡県から六十円にて払下げを受ける。 横浜港からの茶輸出盛んになる。三菱商会、上海、横浜間に初の外国航路開設。 |
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1876 |
明治9年 |
57 |
蒸汽船し靜岡丸、清水港と横浜港に就航。靜岡茶を横浜に運ぶ。次郎長は頻繁に横浜に行き、神風樓に宿泊、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける。 この頃「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い、近隣の青年を集め英語塾を開設。 |
ベル、電話を発明。エジソン、蓄音機を発明。 |
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1878 |
明治11年 |
59 |
波止場の建造、港橋の完成。アメリカ前大統領グラント将軍来港、次郎長は漁師達を集め投網を披露。11月、 山岡鉄舟が、戊辰戦争で不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引き合わせる。天田五郎は次郎長の家に逗留し、次郎長一代記『東海遊侠伝』を執筆。次郎長は全国の親分らに手紙を出し、五郎の父母妹の探索を支援する。 |
ベルリン会議。 |
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1880 |
明治13年 |
61 |
横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者の共同出資により静隆社設立。静岡丸、三保丸が帆航。次郎長は会社設立に尽力。茶の港清水の基礎を築く。 |
集会条例。自由民権運動の激化。 |
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1881 |
明治14年 |
62 |
大政こと山本蟆政五郎死去。天田五郎再び清水港にきて、次郎長の養子となる。富士の裾野の開墾続く。 |
萩原乙彦による「日本民権次郎長説話」の出版が企画されたが、表紙のみにて中止。幻の出版となる。 |
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1884 |
明治17年 |
65 |
二月、博徒のいっせい刈込みにより、靜岡井之宮監獄に収監される。懲役七年、罰金四百円の刑。 天田五郎著による「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が東京神田の与論社から出版。次郎長伝記の元祖となる。 |
一月、自由民権運の過激派湊省太郎、資金づくりのため強盗事件を起こす。次郎長収監は湊省太郎をかくまったとの一説あり。 |
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1885 |
明治18年 |
66 |
十一月、次郎長こと山本長五郎、特赦放免となる。 |
内閣制度の実施。 旧幕臣関口隆吉、靜岡県知事(初代)に就任。 |
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1886 |
明治19年 |
67 |
向島波止場の白井音次郎(徳川慶喜家臣)の所有地に、船宿『末廣』を開業。開業披露のため山岡鉄舟は4本の扇子に揮亳。 |
01 |
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1887 |
明治20年 |
68 |
4月17日、興津清見寺において咸臨丸殉難者記念碑の除幕式が行われる。碑文は 榎本武揚 書。夜『末廣』にて関係者の慰労会がおこなわれる。 |
自転車や娘義太夫が大流行。 徳川慶喜自転車を購入し、静岡から清水へ遠乗り。 |
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1888 |
明治21年 |
69 |
山岡鉄舟死去。次郎長は旅姿にて東京谷中の全生庵の葬儀に参列。 |
01 |
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1889 |
明治22年 |
70 |
静岡中学生 新村出、相原安次郎とともに次郎長を訪ねる。 |
東海道線開通。関口隆吉、鉄道事故のため死去。 |
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1890 |
明治23年 |
71 |
海軍少佐 小笠原長生、軍艦天城に乗り組み来港、『末廣』を訪ねる。 |
第一回帝国議会。教育勅語の発布。 |
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1892 |
明治25年 |
73 |
山田長政顕彰碑建立のため、駿府城内に大相撲興行を催す。 |
01 |
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1893 |
明治26年 |
74 |
6月12日、次郎長、風邪がもとで死去。梅陰寺にて葬儀。参列者は3000人を超えた。法名は碩量軒雄山義海居士。 |
エジソン、映画を発明。翌年(1894)「日清戦争」起こる。 |