次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第9号
                
                平成9年6月12日発行



明治の徳川慶喜と次郎長 

――清水港へ連日通った最後の将軍――

 明治元年から30年まで、一切の政治から離れた元将軍慶喜は、静岡で生活を送る。その間、  連日のように人力車で清水港を訪れ、投網などに興じた。ひそかにそれを守ったのが、  新門辰五郎と次郎長だ。
 

明治2年12月、清水港本町の廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎と次郎長が会見した。
 江戸町火消を組の頭領新門辰五郎は、最後の将軍徳川慶喜の護衛役を自任し、静岡宝台院に近い常光寺に居住していた。慶喜は、その頃すでに謹慎を解かれ、宝台院を出て代官屋敷跡(現在の浮月楼)に移り住んでいたが、新門辰五郎は引続き常光寺に子分数名と住んで、慶喜の身辺を守っていたのである。
 新門辰五郎がわざわざ清水港まで出掛けてきたのは、なぜだったのか。当然ながら慶喜の身辺と無縁のことではない。
 慶喜はその頃、頻繁に清水港を訪れていた。政治とは一切の関係を断ち、趣味の世界へ没入しようとする生活が始まっていたのであるが、清水港訪問は趣味の一断面をのぞかせるものだ。
 明治新政府の温情によって死一等を免ぜられた慶喜は、いわば世捨人である。その世捨人の生活記録が今日まで残されている。「家扶日記」だ。



家扶日記と慶喜の足跡

   「家扶日記」は、徳川慶喜家の家扶たちが書留めた公用日記で、慶喜の静岡時代、明治5年から、明治31年(明元年から明治4年まで欠)まで及び東京移住後の明治45年に至るまで、43冊にわたっている。
 慶喜の頻繁な清水港訪問は、この「家扶日記」に詳細に記録されている。最も早い時期の明治5年で見るとこうだ。

 「(明治五年)四月九日晴
 五時(いつつどき)御出門、人力車ニテ清水湊ヘ御網被為入候(おんあみいりなされられそうろう)、御供  久五郎、御帰殿五半時(いつつはんどき)」
 「四月十日晴
    五時御門ニテ清水湊ヘ被為成候(なりなされられそうろう)、人力車ニテ被為成後、御供錠次郎、七時過  (ななつどきすぎ)御帰殿」
 「四月十二日晴
 五時過ヨリ清水湊ヘ被為入候、御供直作、御帰館七時過」
 「四月十三日晴
 五半時過ヨリ人力車ニテ清水湊ヘ被為入候、御供佐十郎」
 右(上)を現代語になおすと次のようになる。
 「四月九日 晴
 午前八時に出。人力車で投網(とあみ)漁のため清水港へお出かけになる。供は久五郎。午後九時帰宅」
 「四月十日 晴
 午前八時に出発。清水港へ人力車でお出かけになる。供は錠次郎、午後四時過帰宅」
 「四月十二日 晴
 午前八時過から清水港へお出かけになる。供は直作。帰宅午後四時過」
 「四月十三日 晴
 午前九時過から人力車で清水港へお出かけになる。供は佐十郎」


 右(上)で見るように、連日のように早朝出発して、人力車に乗って清水港へ出かけた。四月九日にあるように、投網漁が目的である。
 慶喜は投網を少年時代に覚えている。水戸藩主徳川斉昭の七男に生まれた慶喜は、幼名を七郎磨というが、父斉昭の厳格な教育方針のもとに、生まれるとすぐ江戸から水戸に移されて育った。少年時代のある日、漁師の打つ投網を目撃し、たちまち魅入られて、毎日のように庭先で繰り返し練習して、「網打ち三年」といわれるのを、わずか一か月でマスターしてしまった。投網ばかりでなく、漁師たちの鰯(いわし)漁が面白く、夢中になって帰るのを忘れてしまったというエピソードを「慶喜公伝」は紹介しているが、魚猟好きは生来のものであったらしい。
 慶喜は静岡時代30年間に、ありとあらゆる趣味の道に手を出した。絵画、写真、投網、狩猟、囲碁、謡曲、作陶、和歌、さらに変ったところでは、将軍時代に覚えたという刺繍がある。この中で最も静岡時代の初期の日記に出てくるのが、囲碁と清水港での投網だ。
 明治4年以前の日記が欠落しているので不明だが、最初の清水港行は、明治5年2月16日の日記に「五時御出門ニテ清水港ヘ成リナサレラレ」と記されている。時には夫人同伴で出かけたらしく、2月17日の「家扶日記」には

「今朝六ッ半時頃ヨリ、奥方様清水湊ヨリ三保辺マデ人力車ニテ入リナサレラレ」

 とある。しかしこのような例は稀で、連日の清水港行きは、ほとんど供を一人従えるだけの単独行であり、判で押したように、人力車で早朝出発、夕刻帰宅というパターンだ。



 危険な慶喜の身辺

  従者一人だけのお忍びといっても、元将軍様が白昼人力車に乗って、静岡・清水三里(12キロ)の道程を連日のように往復するのであるから、目立たないわけではない。地元はもともと、徳川幕府の直割地、大御所徳川家康の隠居地でもあり、おひざ元意識から徳川びいきが圧倒的に多い。
 その意味では、将軍様のお忍び行をつけ狙うような危険分子の存在は考えにくい。しかしながら明治維新による徳川幕府の崩壊直後であり、箱館に鋒起した榎本軍が降伏して戊辰戦争が終結したのは、明治2年の5月19日のことで、まだ戦火の血なまぐさい風が消え去っていない。しかも、明治維新の際、静岡・清水周辺では、有力神社の神官たちが結成した駿州赤心隊が官軍に従軍しようと反徳川の旗をあげている。現に明治元年、清水港で起こった咸臨丸事件では、赤心隊員太田健太郎は逃げる徳川兵に銃を向け、その怨念から徳川浪士に暗殺されるという事件が起きている。
 慶喜の身辺が、安全だとはいえないのである。
 廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎と次郎長の両雄が会ったのは、慶喜の身辺をどう守るかというテーマについて話し合うためであった。
 新門辰五郎はすでに70歳。慶喜が謹慎を解かれ、蟄居していた宝台院を出ることになった時点で、自分の役割は終ったと考え、東京へ引揚げる決心を固めていた。彼は自分に代る慶喜の護衛役を、次郎長に託そうとしたのである。次郎長はこの年50歳。地元の親分として押しも押されもしない実力をそなえていたばかりでなく、駿府藩幹事役山岡鉄舟や新番組隊長格松岡萬の強力な推せんも背景にあった。
 ところで、明治2年12月の松本屋奥座敷での右の会談を証言したのは、当時12歳で松本屋に小僧として奉公していた保田七蔵である。
 保田七蔵は後に函館に渡り、事業を成功させて清水にもどり、晩年を過ごすが、昭和14年頃、梅蔭寺の月心和尚に小僧時代の目撃談を語ったらしい。筆者の少年時代、保田七蔵翁は大柄な身体に富士登山者が携行するような杖を片手にし、月心和尚の隠居所にしばしば訪ねてきたことを、記憶している。  月心和尚に取材してまとめた河原井淡著「実録次郎長物語」には、次のように書かれている。「十畳の座敷には辰五郎と次郎長が向いあい、その両側に武士と松本屋が座っていた。」
 次郎長に後事を託した新門辰五郎は、明治4年東京へ引揚げる。
 慶喜と次郎長の関係は、表舞台にはのぼらない。数少ないエピソードとしては、慶喜の子慶久の少年時代、次郎長がその頭をなでて、
 「いいお子だ。いいお子だ」
 といったという話(「徳川慶喜家の子ども部屋」)とか、明治26年、次郎長が病気にかかって寝込んだとき、慶喜が医者を差向けたという話(「静岡民友新聞・昭和17年10月12日」)などが、残されている。
 ちなみに、慶喜は剛情公のニックネームがあるくらいで、頑固かつ負けず嫌い。清水港と静岡の往復には人力車を利用したが、追い抜かれるのがいやで、車夫を常に「急げ、急げ」と督励したといわれる。



【編集室から】

 ・春とはいいながら、風の冷たい季節です。会報9号をお届けします。NHK大河ドラマの影響で静岡は慶喜
  さんブーム。大正天皇は皇太子時代、ケイキさんと呼んだそうです。静岡、清水では、よしのぶさんより
  ケイキさんと呼ぶ方が多いようです。
 ・この慶喜さんと清水港、慶喜さんと次郎長翁は知られざる何とやらで、意外に深い関わりあいがあったら
  しい。次郎長五十回忌は、編集子がまだ小学生の頃でしたが、当時の新聞を引っくりかえして見たら、明
  治26年、次郎長が亡くなる直前、その病床に慶喜さんが医者を差し向けたとの古老の回顧談がのってい
  ました。こういった秘話は、まだまだ多くが埋もれたままになっていると思います。
 ・お蝶さんの墓に追われ過ぎて、お留守になっていましたが、県案の次郎長ツアー、ようやく春の三河路バ
  スの旅で、実施する運びとなりました。ふるって御参加ください。
 ・県案といえば、前々号で予告しました市原市との交流、伏谷如水のご子孫高石鶴子さんに、待ちぼうけを
  食わしているようです。これもできるだけ早く実現したいもの。
 ・石川県加賀市の旧大聖寺藩関所門が、市文化財に指定されることになったそうです。この関所は、次郎長
  が安政6年に大政らと通り抜けようとした所です。加賀市との交流も視野に入れたい。(田)

● かたりべクラブが幽霊松の物語り

次郎長の父高木三右衛門は船乗りである。高木家の菩提所梅蔭寺には、船乗りが清水港に入る時目印に
した大きな松があった。徳川家康も目にかけたというので、「権現様ご存知の松」と清見寺文書には記録
されているが、次郎長も少年期から馴れ親しんでいた。
5人で抱え切れないほどのこの巨大な松は、幽霊松とも地元では呼ばれていたが、太平洋戦争では米軍
の艦砲射撃の標的にもされ、戦後間もなく、千年に及ぶという樹齢を終え枯死した。
今ではその痕跡すら残されていないが、このほど「かたりべクラブ(会長天野香)」の皆さんによって
創作民話「梅蔭寺の幽霊松(仮題)」として絵と物語りが完成し、近ぢか発表される運びとなった。
なお同クラブのメンバーには、このほど静岡県から、60歳以上のすぐれた技芸を持つ人たちに贈られ
る「しずおかマイスター」の称号が授与されることになった。その姓名は左記(下記)の通り。(敬称略
50音順)
天野香、佐野菊江、白鳥昌子、鈴木幸江、鈴木八重子、坪井愛子、望月和子、吉田静子。

● おちょうさんの墓修復手当成る

紆余曲折とは、まっすぐに行かず、まがりくねることをいうのだそうであるが、初代おちょうさんの墓の修復保存は、文字通り紆余曲折の末、ようやくゴールインを果たした。
 その経緯をざっと御報告しよう。

 初代おちょうは、安政5年(1858)の暮れ、旅先の名古屋で亡くなり、その墓は名古屋市平和公園にある。墓の所在については、早くから、愛知県稲沢市の水谷藤博氏(故人)や、焼津市梅田貞夫氏などによって知られていたが、永年の歳月によって墓石の損傷はひどくなっていた。たまたま名古屋市在住の会社社長広瀬正勝氏より、損傷が急速に進んでいるとの知らせを受け、平成8年1月29日、当会服部事務局長ほか2名が名古屋に行き、広瀬氏と合流して墓参し、妙蓮寺代務住職久代潮豊氏とも会い、墓石の修復保存に、当会として乗り出す意志を明らかにした。このことは地元の中日新聞に大きく取り上げられた。2年前のことである。
 同年6月に開かれた当会年次総会で、墓石の修復保存に乗り出す決議を採択した。
 ちょうどその頃、明治期まで妙蓮寺傘下にあった本源院から、「おちょう墓は当院が菩提を弔ってきた」との抗議が入る。妙蓮寺代務住職久代氏と本源院とは、平和公園内の墓地をめぐって係争中であり、その争いに巻き込まれることとなったのである。
 一方、修復保存の方法についても、墓石を新しいものと取り替える、屋根掛けをする、お蝶観音像を建てるなど様々な案が出されたが、最終的には、文化財補修の先端技術を使って、現存の墓石を可能な限り保存できるように手当するという道をとった。
 本源院の抗議については、日蓮宗名古屋宗務所長の長伝寺市川住職が調停に乗り出して解決した。先端技術の方は、沼津市の白隠禅師の墓石修復を手掛ける株式会社アクトと、予算も折合い、正式に依頼を決定した。
 こうして、スタートからまる2年を費し、平成9年12月20日、修復保存手当が完了して、名古屋市平和公園において久代潮豊氏を道師として、完成供養の回向を行った。列席者は、地元名古屋から、広瀬正勝氏、石井隆一、千寿子ご夫妻、宝珠寺林冏成住職、太清寺田口宗純住職、鳳みえ氏、清水から服部千恵子氏、田口英爾氏、名張市の株式会社アクト池之上晃敏社長らであった。



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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