次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第8号
                平成9年6月12日発行



若者たちの作った次郎長物語

―――その絢爛で強壮な世界にはまろうではないか―――

    清水東高郷土研究部の部員たち。17歳、青春まっただなかの若者たちが、
      学園祭で「次郎長」をとりあげた。なぜ次郎長はヒーローなのか。彼らは、
    その絢爛・強壮な生き方に何かを学びとろうとする。

平成8年6月9日(金)から11日(日)にかけて、清水東高で、「学園祭」が開催されたが、イベントの一環として郷土研究部が「次郎長」をとりあげ、ユニークなパネルを出品して注目を引いた。ちょうど、次郎長命日と期を同じくし、しかも若者たちが力を寄せ合って作りあげた「次郎長」ストーリーとあって、本会としても直ちに会報で紹介しようとしたのであったが、徒らに時日が経過し、1年後の本号でようやく宿願を果たすことができた次第。まず若者たちの名前を紹介しよう。

 ・清水東高郷土研究部(当時全員2年生)
  植田陽子 近藤優美子 杉山寛 外岡鉄平 渡辺佑  (五十音順・敬称略)



「明治を生きた男、清水次郎長」と題するパネルは全部で14枚、すべて手作りで、写真やイラストをふんだんに使い、見る人の興味を引き出そうと工夫している。
まず次郎長をとりあげた視点を、次のように切り出している。
「バクチ打ちの次郎長のどこがえらいのか。これは時々耳にする言葉である。なるほど、彼は若い頃はとばくに明けくれたが、しかしその絢爛で強壮な生き方は、我々の胸を打つものがある。そこで私たちは彼の人生をふりかえることによって、何かを学ぼうとした。それはこの郷土研究の成果を見た後、おのずと見えてくるはずである。
 駿府(静岡)はいうまでもなく、清水港の地元民も徳川びいきである。肩で風切る官軍や、その勢威を借りる駿州赤心隊(三保の殿様といわれる三保神社神官太田健太郎もその1人)を地元民は蛇蝎のようにさげすんだ。
 いつどこで衝突し内戦が起こるかもわからない。港の男たちは荒くれ者である。治安を預る如水と次郎長のコンビは、3ヶ月そこそこの短い期間だがこれを治めきった。大藩の家老と、博徒の親分という不思議なコンビがである。
 生涯酒を断った次郎長と、斗酒なお辞せずの如水、文政生れの二人の男はどこか腹の通じ合うところがあったに違いない。任を終えて浜松へ帰る如水を、次郎長は最後まで送った。駕篭(かご)の中で盃を傾ける如水をたしなめながら。
 やがて浜松藩は房総の地にお国替えとなり、如水は藩主井上正直とともに鶴舞(市原市)に移住した。依頼130年、市原の地に伏谷如水と次郎長の間柄を語る言い伝えが残されているのである。


 〈不幸な生いたち長五郎〉

 次郎長は文政3年(1820)1月1日に、清水港の船頭の子として生まれました。幼名、長五郎。家は貧しく、ほどなく長五郎は、米屋の叔父山本次郎八の養子となりました。だから次郎長と呼ばれるようになったのです。
 しかし、次郎長は悪ガキでした。その粗暴な性格を直すため、由比倉沢の伯父のもとにあずけられたのでした。


 〈次郎長にまつわるエピソード〉

 次郎長の悪ガキぶりは、目にあまるものでした。例えばお菓子でつって子分を作って、寺小屋の菊を枯らしてしまったり、池の金魚を弁当箱に入れて友達をおどろかしたりしたそうな。
 それで寺小屋を追い出されてしまったそうな。


  〈次郎長繁昌記〉

 しかし15歳になった次郎長は成長と共に反省して、養家に迎え戻されます。養母の私蓄金を携え、江戸に行こうとしますが失敗し、ひそかに浜松へ赴きました。
 時はまさに天保の大飢饉(ききん)。米の値段は急上昇し次郎長はそれで大儲(もう)けして清水に帰ってきます。
 16歳の時、養父次郎八が死に、家業に専念することを決意します。
 18歳で結婚して、幸せな日々を送っていましたが、店を強盗によく襲われたそうな。



 アウトローの世界へ



  〈ばくち打ち次郎長〉

 20歳の時に次郎長は、旅僧に「あなたの顔には剣が見える。25歳の命だろう」と予言されました。ぐらりと心の傾く若い次郎長。強盗による大怪我、芝居見物帰りに闇打ちに遭うなど、の事件が重なり、ついには自らも人を斬って無宿者となり故郷を捨てたのである。そして彼はばくちにはまっていくのであった。
 さあ、我々も次郎長と一緒に、ばくちの世界にはまろうではないか。

  〈黒駒の勝蔵との抗争〉

 27歳から各地で抗争をしてきた次郎長ですが、43歳の頃から生涯の敵黒駒の勝蔵との抗争がはじまります。

 文久3年(1863)次郎長43歳、勝蔵一味が興津で乱暴をはたらく。
 元治元年(1864)44歳、平井に潜伏中の勝蔵を次郎長らが襲い、勝蔵の子分6人を斬る。勝蔵は甲州に逃亡。
 慶応元年(1865)45歳、勝蔵一味と清水一家が荒神山で血闘(次郎長は参加せず)、血闘は清水の勝利に終わる。勝蔵は逃亡。
 ここで次郎長と勝蔵の抗争はほぼ終了ですが、次郎長の畳の上での死去と対照的に、勝蔵は甲州山崎で斬首刑になります。




   〈 次郎長の変化〉

 やくざ稼業にどっぷり浸かっていた次郎長ですが、49歳(明治元年)の時に当時駿遠三裁判所判事でありその地方の司法・行政を統括していた伏谷如水から出頭の命令が来ました。次郎長は自分が逮捕されると思いましたが、そうではなく、彼を市中警備の役人に登用しようとしたのです。
 始め次郎長は断ろうとしましたが、引き受けることになりました。
 役人となった次郎長は、積年の罪をすべて免除され、帯刀も許されました。ここに23歳の時から約20年間流浪しつづけた次郎長が、青天白日の身になったのです。




   世のため人のための後半生




     〈壮士の墓〉

 明治元年(1868)9月18日、清水港に砲声がとどろき、幕艦「咸臨丸」が官軍に急襲され斬殺された乗組員7体の死体が海に漂ったけれど恐れて誰も始末しませんでした。次郎長は、
    「死ねば仏だ。官軍も賊軍もあるめえ」
 と言って、お上を恐れず、向島の実父三右衛門の所有地に埋葬しました。


   〈現在の壮士墓〉

 「場所」 巴川、港橋近くにあります。鉄舟自讃の文は壮士墓の門柱に刻まれています。今の壮士墓は二代目です。(これは誤り。編集部註)
 「様子」 現在は桜の木に囲まれ、巴川に見守られながらひっそりと佇(たたず)み、毎年9月18日には、町内で静かに供養がとり行われます。


   〈咸臨丸のドラマ〉

・安政4年(1857)、咸臨丸誕生。当時の日本の技術を駆使した船でした。(オランダ・キンデルダイク造船所で建造。編集部註)
・安政7年(1860)、日米通商条約批准書交換遣米使節のために、初めて日本人だけで太平洋を横断。
 そして勝海舟、福沢諭吉らも乗船していました。
・明治元年(1868)、清水港での咸臨丸事件が起こり、輝かしい前歴に比較してあまりにみじめな結末でした。




   〈山岡鉄舟との出会い〉

 次郎長と鉄舟との出会いはあの咸臨丸事件ですが、その後も二人の親交は続き鉄舟の亡くなる明治21年(次郎長69歳)までつづきます。この間に鉄舟は次郎長に理学をすすめたりしましたが、次郎長は本の山を見て悲鳴をあげたなどという逸話もあります。しかし、そういった鉄舟との関係は、富士裾野の開墾、回漕店 (店主を説得して清水港近代化の促進)、英語塾の経営など彼を開明的な方向に向かわせました。


   〈明治の次郎長〉

 改心した次郎長は咸臨丸事件以来清水の発展に大きく貢献します。
  「富士の大開墾」
 明治7年〜17年、次郎長55歳の時より山岡鉄舟の勧めから富士大渕村の開墾を始めます。火山灰の荒地でここを耕すのはかなり過酷な労働でした。
 次郎長は補助金2000円、月給30円で模範囚百数名を借り、子分と共に取り組みました。次郎長の人柄から囚人達は鎖を解かれ、面会も自由でした。(当時囚人は腰を鎖で繋がれていました)
 そして7・80ヘクタールの土地が開かれましたが、1人の囚人の逃亡となり、「お上に顔が立たない」という次郎長の一言で幕を閉じました。
 この脱走囚は間もなく捕まり、作業を中止させたと他の囚人の恨みをかい、獄中で殺されたといわれます。
 その後も大きな業績を残し、晩年にはT波止場の爺さんUと子供からも親しまれつつも、明治26年6月12日、おてふ子分の中でその波乱に満ちた人生に終止符を打ちました。享年74歳。





【編集室から】

 ・会報「次郎長」第8号をお届けします。毎度ながら、総会に間に合わせるため、夜なべで編集しました。
  若者たちによる次郎長特集です。
 ・名古屋平和公園のおてふさんの墓、補修の話はついに2年越となりました。前々号の本欄で紹介したよう
  に、発端は名古屋市インテリア会社社長広瀬正勝さんによる昨年1月の呼びかけからですが、思わぬお寺
  さんの待ったのために、いたずらに時日を費やしてしまいました。物事はツボをはずすとこじれること
  を、われわれ事務局としても自省しなければなりません。墓石が荒れるにまかされているおてふさんこそ
  可哀そうですが、近々応急手当に着手できることになるでしょう。
 ・竹内宏会長は、長銀総合研究所理事長や静岡総合研究機構理事長の要職のほかに、講演やマスコミ原稿執
  筆に大忙しですが、講演でも原稿でも、「次郎長翁を知る会」のPRには並々でない力を入れています。
      最近でも「文芸春秋」6月号の随筆欄に「侠客の明治維新」と題して好エッセイを書いていますが、早速
  反響があり、東京、神田のさる古美術商から、伏谷如水の真筆があり、寄贈の申し出があったと聞きま
  す。
 ・2年後に「清水港開港百年」を迎えます。次郎長が明治の初め清水港近代化に大きな足跡を残したことは
  周知の事実です。本会としても、開港百年委員会に「提言」を行いたいとおもいます。 (田口)



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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