次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第7号
                平成8年6月15日発行



市原市長も動き出した

―――次郎長を引立てた伏谷如水が結ぶ―――

    明治元年、物情騒然たる駿府周辺の警固役として伏谷如水は次郎長を大抜擢した。その如水
     は千葉県市原市に眠る。市原市小出善三郎市長は、如水を介して、「清水市との友好の絆を結
   びたい」と熱烈な言葉を寄せた。

伏谷如水――浜松藩家老だったこの人が、明治維新の次郎長大変身の導火線役となったことは、会報「次郎長」第5号で紹介した。そのきっかけとなったのは、平成5年の文芸春秋誌に竹内宏会長が随筆「次郎長と私」を発表し、それを読まれた千葉県市原市の高石鶴子さんが、
  「伏谷如水の曽孫」
として長銀総研竹内理事長秘書役の秋岡栄子さんに連絡を寄せられたことからである。

高石さんの生家伏谷家では、
 「如水おじいちゃんが次郎長を可愛がった」
話が代々語り継がれているという。慶応4年(明治元年)の春、有栖川宮大総督の率いる官軍の先鋒として駿府を治めていた伏谷又左衛門如水は、物情騒然たる駿府周辺の警固役として、次郎長を大抜擢した。この時、次郎長49歳、如水は2つ上の51歳。
 駿府(静岡)はいうまでもなく、清水港の地元民も徳川びいきである。肩で風切る官軍や、その勢威を借りる駿州赤心隊――三保の殿様といわれる三保神社神官太田健太郎もその1人――を地元民は蛇蝎のようにさげすんだ。
 いつどこで衝突し内戦が起こるかもわからない。港の男たちは荒くれ者である。治安を預る如水と次郎長のコンビは、3ヶ月そこそこの短い期間だがこれを治めきった。大藩の家老と、博徒の親分という不思議なコンビがである。  生涯酒を断った次郎長と、斗酒なお辞せずの如水、文政生れの二人の男はどこか腹の通じ合うところがあったに違いない。任を終えて浜松へ帰る如水を、次郎長は最後まで送った。駕篭(かご)の中で盃を傾ける如水をたしなめながら。
 やがて浜松藩は房総の地にお国替えとなり、如水は藩主井上正直とともに鶴舞(市原市)に移住した。依頼130年、市原の地に伏谷如水と次郎長の間柄を語る言い伝えが残されているのである。




市原と清水

   高石さんの橋渡しがきっかけで、今清水と市原が新しい交流を始めようとしている。
 市原市の市長小出善三郎さんは、「市原と清水」と題して「広報いちはら」に次のような文を寄せている。

『市原と清水』              小出善三郎(市原市長)

 浜松藩の家老伏谷如水(ふせやじょすい)は、お国替えによって明治二年に市原市の鶴舞へ移住してき
 ました。そのため、鶴舞の街から少し離れた岩井戸の山腹に、彼の墓が建っています。鶴舞藩へ移る前の
 如水は、駿府町奉行に代わり、警察権を預る民政長官の役を命ぜられていました。
 清水市に「次郎長翁を知る会」という会があり、私は会報の中から、市原市と清水市とのかかわりを知
 ることが出来ました。清水市といえば、サッカーの清水エスパルスを連想しますが、私にはもう一つ、清
 水の次郎長が思い浮かぶのです。
 記述によりますと、次郎長は慶応四年四十九歳の時、切った張ったの渡世人から一転して、駿府の治安
 責任者に登用されています。当時浜松藩の藩主井上正直(後の鶴舞藩主)は老中として江戸に勤めてい
 ましたが、国元を預っていた如水は、いち早く朝廷の命に従い、藩兵を率いて駿府に駐留したのです。
 王政復古を唱える官軍にとって、清水は交通の拠点でした。幕府直轄だった駿府の市中警固役を、だれ
 に任せたらいいか、悩んだ末に次郎長を選んだのが浜松藩の如水でした。
 駿州赤心隊、駿州報国隊、伊豆伊吹隊など、血気盛んな勤王義勇隊は、神官たちによって結成されてい
 ました。彼らは、江戸幕府の政策に怨嗟の念を抱いていたといわれています。人を殺(あや)めれば仕
 返しをされるという物騒な世の中ですから、治安責任者次郎長の役目は大変だったと想像できます。
 次郎長の妻お蝶も、明治二年に何者かに殺害されています。
 晩年の次郎長は、社会事業に数々の業績を残していますが、もし如水と逢わなければ、次郎長は単なる
 博徒の親分で終っていたに違いありません。市原市と清水市との友好の絆が強まることを期待します。

                              (「広報いちはら」平成八年二月一日号)

     浜松藩国元家老伏谷如水と次郎長の、明治維新における関係を的確に述べた右の一文は、早速当会事務局にも送り届けられた。編集子の手元にも市原市の高石さんから郵送された。
 4月初めのある日、観光協会専務理事に新任された桜田宏さんと服部事務局長および編集子の3人で、激務の間の時間をさいて下さった宮城島市長に市長室でお会いし、右の小出善三郎市原市長の記事をお見せし、「次郎長翁を知る会」として、市原市との交流を「次郎長・如水」をカギに深めて行くつもりだとお話した。

 宮城島清水市長も大いに賛成の意を表し、
  「大変いいことだ。やらざあ」
 と膝を乗り出して下さった。

 5月18日早朝、東京駅を発って、編集子は市原に向かった。伏谷如水の墓に詣でるためである。平成5年、如水の曽孫に当るという高石さんから最初のお手紙をいただいてから3年の歳月が流れている。
 内房線五井で乗換、小湊線は単線、二輛連結のディーゼル車でゆっくり走り、40分ばかりで馬立駅に着。東京湾にのぞんだ五井から、房総半島のまん中あたりのここまで、ずっと市原市である。市原という駅名はない。
 馬立駅改札口の駅舎に、高石さんが出迎えて下さる。伏谷如水曽孫との初めての出会いである。小柄で上品な媼だ。その高石さんがわざわざ手配して下さった車で、如水の墓所に向かう。
 5月下旬、新緑たけなわの季節である。この辺ではすでに田植も終り、水の張られた水田に、あちらに一つまみ、こちらに一つまみといった形の森の蔭が映されている。人家もまばらな、そういった田園風景の中を車は走る。運転して下さる平野さんは、清水の高名な書家松田江畔さんの奥さんといとこに当るとのことである。今更ながら世の中は広くて狭いものと思う。
 およそ十分ほどで、田圃の中のとある小高い丘陵に着く。岩井戸と呼ばれる此地が、鶴舞藩家老伏谷如水の墓所である。
 車を下り、丘陵に取付けられた人一人ようやく通れるほどの小路を登る。小笹の茂みが途切れた僅かな平地に、古びた墓が三基立っている。向って一番右が伏谷如水、中央がその妻、左が娘の墓である。
 神葬祭とのことで、高石さんが用意された榊を手向けた。
 ちょうどその時、雲間から木もれ陽がさしかかり、それまで見えなかった墓石の字が、鮮やかに浮出した。

  「伏谷如水墓」

 と五文字が刻まれている。法名のようなものはない。側面に刻まれた文字を読むと

  「文政元年十一月二十二日生、明治二十二年六月二十九日歿、行年七十二」

 とある。次郎長より2年早く生まれ、4年早く亡くなった。文政生まれの二人の男は、明治維新という時代の大激変の中で出会い、生死の交わりを持ったのである。
 如水は晩年を、墓のあるこの丘の麓に住んだ。上總国市原郡池和田村字岩井戸(市原市岩井戸)にあった如水晩年の隠居所跡は、緑の草が萌えるだけの畠地となっている。
 岩井戸の墓地と隠居所跡地を後にして、鶴舞の城趾、如水旧邸に向かう。
 明治元年9月、浜松藩主井上河内守正直は、上總国へ転封を仰付られた。上總国市原郡、埴生郡、長柄郡、山辺郡二百六箇村六万二千石の鶴舞藩である。藩主のお供をして如水が市原に赴任したのは翌明治2年。
 現在の市原市鶴舞の地に、陣屋が建てられ、堀がめぐらされた。今その場所に、「鶴舞城趾」の碑が建てられている。

 如水旧邸は、ここから程遠くない所にある。ちょうど清水の観音山ほどの小高い山に抱かれるように広大な如水旧邸の跡地が広がっている。数千坪はあるだろうか。雨戸が閉ざされひとの住まぬ平家の建物がひっそりとその一角に建っている。昭和初期の火災で失われてしまったらしい。
 案内していただいた高石鶴子さんは旧性伏谷。兄庸夫さん(三島市在住)と二人きょうだいである。如水の嫡男惇の子遵一が17歳で亡くなったため、惇の娘とよが生んだ雅助を大森家から養子に迎えて伏谷家を継がせた。庸夫、鶴子兄妹の父が雅助である。母は矢田部氏みすである。
 この人は、三島大社神官矢田部盛穂(もりほ)の次女である。鶴子さんは母方に縁の深い三島で生まれ育ったそうである。女学校も三島だ。ちなみに、矢田部盛穂は盛治(もりはる)の孫に当る。矢田部盛治といえば、あの明治維新前後の精細な記録を書残した「盛治日記」のその人である。
 本会報前々号第5号「矢田部盛治日記と次郎長――明治元年の赤心隊事件をめぐって」の中で、盛治日記の中に次郎長が何回か登場することを、編集子は指摘しておいた。
 明治元年12月18日の夜、三保神社神官太田健太郎が、徳川浪士と見られる数人の男に惨殺された。この駿州赤心隊事件は発足したばかりの徳川駿府藩を揺るがす。次郎長はこの事件の後始末に一役買い、健太郎の遺族を三島へ避難させた。
 明治2年1月1日の矢田部盛治日記に

 「三保の太田健太郎妻おさえと子供三人、乳母三人が来た。健太郎の喪中であるから細小路庄七方へ逗留させることにした」

 と記されている。家族らを三保から三島まで護送したのが、ほかならぬ次郎長である。高石さんは、神道が死者を忌むこと、逗留先の「細小路左七」の細小路は地名であることを、編集子に教えて下さった。
 盛治日記には、駿州赤心隊事件と次郎長のか関わりを示唆するさまざまな事実が記されている。次郎長研究家として知られる戸羽山瀚と深い親交を持った。瀚の本名は藤池(鈴木)良雄。幼年時代を清水で過ごした人だ。

   高石さん御手配の車に送られて、編集子は五井駅に着き、市原を後にした。

 次郎長と伏谷如水、清水と市原、また三島大社と矢田部家。さまざまな人と人との関わり。編集子の探訪の旅はまだまだこれからである。




次郎長こぼれ話――郷土研究会々報から


 清水郷土史研究会会報「清郷研」第17号に「次郎長こぼれ話二つ」と題して「キリスト教徒になった次郎長の子分/堀場昭司」と「窪田治部右衛門と次郎長/松浦元治」が載せられている。どちらも珍しいエピソードだ。前者は「織田金雄牧師説教集」にある小話ということで、滋賀県のある老侠客にまつわる伝聞。
                                            後者は歴とした典拠のある話だ。次郎長と関わりのあった窪田治部右衛門という人は、旧幕臣で維新後、清水・村松に移住し墓は駒越の万象(まんぞう)寺にある。松川事件で名高い作家広津和郎は、この人の子孫という。広津和郎の随筆「おもいで」の中に、次郎長と窪田治部右衛門のわたりあったことが書いてあるのを発見した松浦さんは、清水にゆかりのある旧幕臣の史実調べに精力を傾けておられる方だ。
 文久三年浪士掛に抜擢され、新徴組巨魁清川八郎暗殺に、高橋泥舟、山岡鉄舟、松岡萬らと共に関わった窪田治部右衛門には、編集子も大きな関心を持つ一人である。 

【編集室から】

 ●会報「次郎長」第7号をお届けします。平成8年度年次総会に合わせるため、急ピッチで編集しました。
  実は清水東高郷土研究会の皆さんが学園祭に出展した「次郎長の全貌」を紹介するつもりだったのです
  が、編集子の引越騒ぎで資料の索出不能となり、間に合わなくなりました。次号で紹介することにいたし
  ます。申訳ありません。
 ●長い間の県案だった「市原」の伏谷如水墓参がやっと叶い、5月19日に行ってまいりました。市原市長
  小出善三郎さんへの橋渡しをはじめ、市原市在住の如水子孫の高石鶴子さんには、たいへんお世話になり
  ました。誌上をかりて改めて御礼を申し上げます。
 ●下清水八幡神社境内の一角に、御浜御殿(家康別邸)跡の記念碑がある。碑文は幕末の漢詩人として高名
     な大沼枕山が書いたもので、その道の専門家によれば、大変珍しいものだそうである。その石碑が今にも
  崩れそうになっていたのを、市の教育委員会が数年前さる文化財補修専門家に依頼してみごとに補修し
  た。雨露をしのぐ屋根もさしかけられている。前号でも紹介したように、名古屋平和公園にある初代お蝶
  さんの墓が崩れ落ちそうになっており、その保存をめぐって名古屋市の会社社長広瀬正勝さんや、菩提寺
  の妙蓮寺住職さんらと当会が手を結んで動き出したところである。どう保存するかについては、下清水八
  幡神社の碑が、大いに参考になりそうである。               (田)



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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