次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第6号
                平成8年3月20日発行



明治の次郎長について

・帝大出の医師植木重敏の説得、東海軒繁盛記異聞、
    三保の次郎長開墾、相良油田、神道天照教など……

                       事務局長 服 部 令 一

 「清水と言ったら何を連想しますか」と、清水以外の人びとに問えば、多くの人は「次郎長」と答えるだろうと想像される。これ程までに有名になっていることは大変ありがたいことと思わなければならない。
 人間誰しも失敗もあり、軌道を踏みはずすこともあるが、これに気付いて非を認め、更正の道に入ったならば、過去は過去として水に流すほどの雅量があって欲しいものである。
 ともすれば自分の運命を呪わずにはいられない過酷な人生の中で、何よりも己の過ちに対し抱いた懺悔の念により、晩年をして転身したならば、「人間性善説」を以て迎え入れてもよいではないかと考えるものである。筆者は、決して次郎長を英雄視したり、傑物視したりするつもりはないが、晩年の生き方にもっと目を向けて評価していただきたいと思っている。
 この頃、小学生や中学生が、自由研究の中で次郎長を取り上げ、生家を訪ねてくれることが多くなっているが、これは晩年のことがだんだんわかってきている証拠ではないかと、うれしく思っている。その小学生や中学生に、人間として生きて行く上で何が大切かを、次郎長に例をとって話してやると、大変興味を持ち、意外性に驚くと同時に、感心して帰って行くことが多い。次郎長の生き方の上で、私は次の点を挙げる。

1、人生で人と人との出会いが大切であること。したがって、諸君は良い友を選ぶことと、良い師を選ぶことに心掛けること。
2、他人に思いやりを施せば、必ずこれが跳ね返って自分の守りとなること。
3、次郎長は自分の算盤(そろばん)として、常に共存共栄主義を貫き、すべてに処してきたこと。このような次郎長につき、以下に記してみたい。




明治維新が転機

   日本の国に大きな転換をもたらせたのは、明治維新である。これを契機に次郎長の人生も大きな変化をなした。山岡鉄舟との出会い、その他の高官との出会いが、次郎長の人生を大きく転換したのである。
 明治になってからの次郎長は、これからは諸外国との交易が始まるので、「若い者は英語ぐらい話せなければだめだ」と、今の清水小学校の前身である明徳館(初代館長は幕臣の新井幹)を使って英語教師を招き、英語塾をはじめた。これは特筆すべきことであると思う。
 静隆社を設立し、清水、横浜間の定期航路を開設したことも、画期的な事業であったと思う。また港を発展させるためには流通組織の整備が必要と、自ら説いてまわり、現金問屋中泉の出店を実現させた功績も大きい。
 中泉株式会社は、もともとソニー盛田会長の生家筋である山泉醸造と中埜酒造の合弁でできたことが、社史にも書いてある。
 さらに三井物産が清水に支店を開設する時にも次郎長に招待状が発せられた。地元の実力者次郎長への期待があったものと思われる。この招待状は、現三井物産静岡支店に大切に保管されている。






 相良油田の開発

      相良の山に変なにおいのする水が出ているということから、山岡鉄舟の義弟石坂周蔵が、この水を見てこれは石油だと発見し、発掘が始まったのが、相良の石油開発である。この時山岡鉄舟は次郎長に手紙を出し、この開発に協力してくれるよう依頼した。この手紙は追分羊かんの府川松太郎氏が大切に保存されている。
 こうして相良石油株式会社が発足したわけであるが、次郎長はこの会社の株券募集に奔走して資金集めに協力した。この株券の一部は、清水市本魚町の北村弘二郎氏が所蔵されている。明治25年に発行されたもので、一株が25円という巨額のものになっている。






  写真は石坂周造





 清水に医師を

   ある時、一人の観光客が次郎長生家を訪れ、こんな話をしてくれた。
 次郎長が横浜から清水へ帰る時、船の中で一人の医者の卵と同席した。次郎長のすすめでその医者の卵は清水で下船し、医師を開業したという。「この話を知っているか」と尋ねられた。
 その時、いくら何でも東京大学医学部を卒業して故郷に立派に錦を飾って帰れる人が、次郎長の誘いがあったからといって、そう簡単に清水で下船し、開業するだろうか、と信じられなかった。
 ところが、次郎長はこう口説いたという。

 「清水には医者が少なく、みんなが病気の時困っている。どうだろうか、高知で開業するも、清水で開業するも、人を助ける医業に変りはない。一つ清水で開業してくれないか、もし承知してくれるなら、開業の面倒は俺が見る」

 次郎長はそういって堅く約束した。医者の卵という青年の名は、植木重敏といった。何が彼を動かしたかはわからないが、次郎長といっしょに船を清水で降り、医院を開業するに至るのである。
 真偽のほどは眉唾と思ったが、もし本当だとすれば、たいしたことであると思って調査にとりかかることにした。
 早速、郷土史研究会会長の土屋重朗先生をお訪ねし、「植木重敏」なる人物が医師会の名簿にあるかどうかを調べていただいた。
 先生は、ただちに古い名簿を出してきて、その名前を丹念に調べているうちに、
  「あった」
 と驚きの声を発せられた。私の夢は、正夢になったのである。名簿によると、植木重敏は、当時の医師会会長もつとめていた。この発見に勇気づけられ、東京大学医学部から卒論を得ようとしたが、それは実現できなかった。その代わり、次のような記録のあることを確認した。

 明治19年卒業 植木重敏
    自宅開業 清水港、海岸通り

 ちなみに、家族構成は、妻が周知郡山梨町(現袋井市)の幡鎌家から嫁に来ていることが判明した。そこで幡釜家を訪ねてみた。
 幡釜家は見付天神社の代々宮司である。見付天神社を訪ねると、前記のことが間違いないことが確認された。しかも、次郎長が植木重敏宛に出した手紙と戸籍謄本まで見せていただき、事実が決定的となった。その手紙の筆跡は、次郎長が山岡鉄舟に出した手紙の筆跡と、全く同じで、ますます確信を深めた。





 東海軒と次郎長

   本会副会長の井出孝さんから聞いた話であるが静岡の東海軒に、東海道線布設の時の、次郎長斡旋の人夫書が、金庫の中に保管されているという。そこで、東海軒を訪ね、このことを聞いてみる。すると、すぐに『東海軒繁盛記』を取出して見せてくれた。この『東海軒繁盛記』には、次のようなことが、書いてあった。

  「今を去ること百年余り。当時、静岡はまだ府中と呼ばれて居りましたが、徳川幕府が崩壊して天皇の御代をを迎えますと、府中は不忠に通ずるから宜しくない。市制設定を機会に新しい市名を募ろうと云うこになって、議論の末、賤機山の麓の町だから賤が丘、つまり静岡と呼ばれるようになった。当時、江戸から駿府へ入る道程は、東海道を蒲原、由比から江尻へ進み、久能山下から街道を横田へ抜けて、伝馬町で宿をとるのが習わしとなっていたので、昔の伝馬町通りは軒並み旅籠で賑わっていた。
  府中の中心地で六丁目に山西屋という米穀商が住んでおり、場所柄、得意も多く手広い商いをしていた。」

 「その頃は、米をはじめ多くの荷物は、海路江尻港に陸揚げされて各地にさばかれて居り、港は連日活気に充ちておりましたが、この荷役を仕切っていたのが清水の次郎長だと云われる。
  ある日この次郎長が山西屋へ顔を見せた。次郎長の用件というのは静岡に鉄道を敷く工事がはじまるので、鉄道省のお役人が江尻と静岡にやって来る。江尻の工事はあたしが段取りするが、静岡は手がない。山西屋さん、あんたに一切を頼むから工事万端抜かりのないように、現場のめんどうをみてくれないかということだった。
山西屋滝蔵は次郎長の頼みを聞いて、この工事のために来静した鉄道関係者の世話役を引き受けまして、食事の世話から人夫の斡旋、用地用材の買上げに至るまで、日夜親身になって鉄道を助けましたので、さしもの難工事も無事完成した。科学技術が発達した現代からみれば何でもないことのようですが、古い記録などによれば、静岡以西の天竜、金谷、大崩の三カ所は筆舌を尽せぬ程の難工事で、動員された人夫の数はおびただしいものだったと記録されており、二人の苦労もひとしおだったと思われる。
 東海道線は明治二十年四月に江尻―静岡間が敷設され、二年後には国府津―静岡間、翌二十三年四月には静岡以西が完成して、やがて東海道線開通の運びとなる。」

  写真は安倍川の鉄橋を渡る東海道線上り列車(明治20年代 徳川慶喜撮影)




 富士開墾と神道天照教

   次郎長が富士の開墾をしたことは有名で、開墾の場所も富士市次郎長町と行政区画にも採用され、しかも富士山麓バスの停留所にも、「次郎長作業所前」とか「次郎長東」「次郎長」といった具合に、次郎長の名を冠した地域となっている。したがって、次郎長が開墾した事実は歴然たるものがあるが、さてそれでは何が故にこの開墾を富士に求めたかはわかっていない。何か理由があるはず、と思って時間の経過とともに調べを進めて行ったところ、「神道天照教」との関係があることを突きとめた。
 神道天照教は次郎長開墾のすぐ上の、標高千メートルの所に現在もある。ここには、明治維新政府の重鎮西郷従道や政商高島嘉右衛門、さらに次郎長や開祖徳田寛豊手植の桜があり、春は桜の名所となっている。
 この社は、水戸藩士で伊井大老の首をはねた桜田門外の変に関わったという徳田寛豊が開祖となって建設されたもので、開設当時は信者数も数万人、旅館、風呂屋、豆腐屋などまであって大変栄えたものらしかった。明治の世直しの時代に、高い志をもって、この地を拠点としたものであるが次郎長が開墾地を富士の裾野に求めたのも、この神道天照教と大いに関係があるらしい。開祖徳田寛豊のご子孫であり、今も神道天照教を守っている徳田達誠さんは、そのように話してくれた。




 三保の次郎長開墾

   咸臨丸事件や壮士の墓については、明治の次郎長の事跡の中でも最も大きなことであるが、ここでは省略し、あまり知られていない三保開墾について、ふれてみたい。

 三保に「次郎長開墾」と呼ばれる所がある。
 これは次郎長が開墾して土地を耕したところと聞いているが、その証拠となるべきものが、ないものかと思っていた矢先、こんな耳寄り話を聞いたのである。
 三保の石野昌太郎さんから、この次郎長開墾の権利書があり、場所も特定できるから是非これを記念するための碑を建てたい、経費は何とかなるから、関係者でこの実現に努力されたい、ということであった。
 その後再び石野さんから話があって、記念碑に向いた石が安倍奥にあるから見に行きたいということになって、観光協会の人と共に梅ヶ島まで見に行った。ところが、石は掘り起こしてみないと姿、形が見られないので、見合わせることとした。そのほかにも候補があったが、決定するまでに至らないでいるうちに、石野昌太郎さんが他界してしまい、そのままとなった。
 石野さんの言では、この開墾地に将来道路が通ずるので、その道路の高さが決まらないと進められないということであった。
 記念碑の建設は、亡くなった石野昌太郎さんの強い意志でもあったので、何としてでも実現したい、というのが石野さんのご遺族のお考えでもあるようだ。

        ・本稿はもっと長いものでありますが、紙数の都合により編集部の責任で短くしました。





いわき市長さん、「旅姿」大熱唱


 平成7年11月2日・3日の両日、いわき市の「愚庵会」の皆さんとの交流をはかるため、同地を訪問しました。平成6年には、いわき市から清水訪問があり、今回は2度めの清水からいわき市訪問の番です。今度の訪問は、総勢43名に達し、いわき市岩城市長をはじめとする大歓迎もあって、大成功でした。
 43名の参加者のうち、郷土史研究会やかたりべクラブの皆さんの参加が、半数以上を占めました。厚くお礼を申し上げます。

 日程の一日めは、早朝バスで清水出発、昼過ぎいわき市湯本温泉「さはこの湯」着、宝井馬琴師匠の「次郎長と天田愚庵」の一席を聞きました。これは師匠が自ら書下した新作で、40分の大熱演。次いで愚庵旧居を見学の後、湯本温泉の古滝旅館に入りました。夜の宴席は、愚庵会柳沢一郎先生以下の方がたの心尽しによる歓迎懇親会です。岩城市長はじめ教育長など幹部の方がたも列席し、清水からの一行(団長服部令一事務局長)合わせて70名ほど、大いに盛上がりました。
 中でも、岩城市長の大熱唱「旅姿三人男」と清水郷土史研究会のご婦人連による「次郎長音頭」が圧巻でした。
 二日目は、夏井川渓谷、赤井嶽常福寺、白水阿弥陀堂の時代祭を見学。
 二日間をたんのうし、11月3日夜9時頃清水に帰着しました。


左写真は時代祭の、いわき市長岩城さんを囲んで。右写真は熱演する馬琴師匠

【編集室から】

 ●ほぼ1年ぶりの会報で、第6号となります。県案だった次郎長ツアー「いわき市訪問」は郷土史研究会の
  皆さんの御尽力もあって40名を超える参加者が集まりました。今年はいわき市の皆さんの来訪を受入れ
  る番です。こちらからの訪問の際の、いわき市市長さんをはじめ、愚庵会の皆さんの熱烈な歓迎ぶりを考
  えると、負けないように頑張らねばなりません。
 ●初代お蝶さんは、安政5年(1858)旅先の名古屋で次郎長に看とられながら亡くなりました。そのお
  墓は名古屋市の墓地公園平和公園の一隅にひっそりと立っています。名古屋市のインテリア会社社長広瀬
  正勝さんから、「何とか供養を」の呼びかけがあって、1月29日、服部事務局長、かたりべクラブ鈴木
  幸江さん、観光協会渡辺琢久さん、および編集子の4人で、名古屋へ行き、お蝶さん墓、広瀬さん宅およ
  び妙蓮寺を訪問しました。このことは翌1月30日の中日新聞に大きく取り上げられ、六段抜き写真入り
  で報ぜられました。ボロボロになった墓石の保存、供養などは今後の課題です。
 ●次郎長を明治維新の際市中警護役に取立てた伏谷如水のご子孫高石鶴子さんからお手紙と市原市広報が寄
  せられ、市原市長が次郎長を介して清水市との交流を強く望んでおられる旨を知りました。近々市原市を
  訪ねる予定です。   (田)



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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