次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第5号



矢田部盛治日記と次郎長


  ―――明治元年の赤心隊事件をめぐって―――

 明治維新の年の春、三保神社神官太田健太郎が何者かに暗殺された。犯人は徳川浪士らしい数人の男たちとされる。スタートしたばかりの明治新政府の下、徳川駿府藩は事件の穏便な解決に動くが、次郎長がこれと関わった。  三島大社神官矢田部盛治の残した日記が、この時期の次郎長の行動を鮮明に浮彫りにする。以下は矢田部日記による新発見のレポートである。




浜松藩家老伏谷如水

 次郎長が渡世人の生活から足を洗い、大変身を遂げるのは明治元年だが、そのきっかけを作ったのはよく言われる山岡鉄舟ではなく、浜松藩家老伏谷如水という人物である。如水は官軍軍政下の駿府における民政長官だったが、次郎長を抜擢して地元の治安責任者とした。
 いうまでもなく次郎長の後半生は、山岡鉄舟ら旧幕臣との交流に大きな影響を受けている。咸臨丸事件をはじめ、富士裾野開墾、石油発掘、英語塾、清水港近代化など次郎長が明治維新後に手がけた社会事業は山岡鉄舟抜きには語れない。しかし、切った張ったの生活に終止符を打たせ、次郎長の生き方に根本的な方向を与えたのは、伏谷如水なのである。
 一昨年、竹内宏会長が文芸春秋誌の随筆欄に、「次郎長と私」という一文を発表した時、市原市(千葉県)の高石鶴子さんから竹内会長宛に「伏谷如水の子孫だが」という連絡があった。竹内会長の一文は、ともすれば見落とされがちの如水と次郎長の関係を的確に伝えるものだったので、それを読んで感心された高石さんが、長銀總研宛に電話されたということだった。理事長秘書役として「次郎長翁を知る会」にも終始大きなサポートをして下さる秋岡栄子さんから、早速編集子に右のことが伝えられた。編集子は高石さんと連絡をとり、以後数回、電話と手紙を交わしあった。
 高石さんは旧姓が伏谷(ふせや)で、如水の曽孫に当る。浜松藩は明治2年に鶴舞(市原市)にお国替えとなり、如水はこの地に移住したそうである。鶴舞には城趾や如水の墓所もあるとのことだが、今日まで訪ねる機会を編集子は逸している。
 伏谷如水のことについては、高石さんからいろいろのことを御教示していただいた。その中で編集子が最も驚いたのは、伏谷家と三島大社(静岡県三島市)神官の矢田部家が親戚(しんせき)であるという事実であった。
 次郎長が明治元年に起こった「三保神社神官暗殺事件」にどのようなかかわりをしていたかは、これまでよくわからない点が多かった。編集子は数年前「駿州赤心隊」のことを調べたことがあったが、その際、三保神社神官太田健太郎が暗殺された直後に、妻と幼い子供が三島大社の矢田部家へ避難したという事実を知った。「矢田部盛治日記」にそのことが書留められていたからである。しかし、次郎長がそのことにどう関わっていたかは不明だった。「矢田部日記」は大変難読のため細部まで読むのは手に負えないことだったのだ。
 「次郎長と三保神社神官暗殺事件」、「次郎長と伏谷如水」と並べても、両者の間には何の関係もなさそうである。しかし伏谷如水と矢田部家という関係を両者の間に置くと、がぜん今まで知られなかった糸が、両者を結びつけているのではないかという考えが浮かび上る。
 「東海遊侠伝」には、次郎長が明治維新後、お上の御用で三島へ行くという件(くだり)がある。途中黒駒一派に出会うことが書かれているが、どんな用向きで三島に行ったのかは触れられていない。
 この三島行きこそ「神官暗殺事件」の関わりではないのか、さらにこの事件の後、二代目お蝶が徳川浪士と思われる男のテロに遭う。新番組隊士による意恨がこれまで定説となっているが、なぜ怨を買わなければならなかったかを充分解明できる史料はなかった。
 このような謎を解くためには、史実を丹念に辿って行かなければならない。編集子は「矢田部盛治日記」にもう一度当ることにした。





明治元年の静岡

明治元年(1868)前半の駿府を中心とする出来事を時系列に従って整理しておこう。

 慶応3年12月、大政奉還に続く王政復古の大号令で250年続いた徳川幕府は廃絶となる。
 慶応4年(この年9月に明治と改元)1月、鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗退し、将軍慶喜は大阪を脱出し、開陽丸に乗って江戸帰着。次いで慶喜追討令が発せられ、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍が、錦日月の旗をなびかせて東に向かった。
 大総督熾仁親王、参謀西郷隆盛ら東征軍本隊が駿府に到着したのは、3月5日である。それに至るまで、沿道の諸藩は次つぎと勤王請書に署名し、東征軍すなわち官軍に加わった。御三家の一、尾張藩では藩主徳川慶勝が幕府支持の重臣3人を斬首し、いち早く旗幟を明らかにした。
 浜松藩は、藩主井上正直が老中として江戸にいるため、国元家老伏谷如水と、城代井上織部の二人で決断し、尾張藩から回された勤王請書に署名した。浜松藩は官軍傘下に入ったのである。
 藩兵を率いて東征軍に加わった伏谷如水は、3月5日に駿府入りする。
 すでに駿府町奉行所は解体し、奉行以下、与力同心らは江戸に引揚げてしまっている。駿府城大手門には、東征軍の据えた三門の砲門が周辺を威圧した。

東征軍が駿府に到着するよりも前、この地方では神官たちによる勤王義勇隊が結成されていた。大井川以西では遠州報国隊、大井川以東、富士川以西では遠州赤心隊、富士川以東は伊豆伊吹隊である。
 もともとこの地方では、賀茂真渕、本居宜長、平田篤胤らを源流とする国学が盛んであった。歌会などに名を託して会合が開かれ、神官たちは皇室の衰微を嘆いたり、王政復古を論じて気勢を上げていた。
 神官たちにとって徳川幕府は、いわば怨敵である。江戸時代を通じてその手厚い仏教保護政策のもとに神葬祭は禁じられ、神官に仕える社人といえどもいずれかの寺の檀徒として、宗門改帳に記載を強要された。古くからの領地を削減された神社も少なくない。神官たちは長い間僧侶の下風につかされていたのである。


左写真は鉄舟寺所有(現在「末廣」に展示中)の次郎長木造人形

 そのような時代は、天皇御親政の実現によって一変することになる。王政復古宣言に続いて朝廷では、いち早く仏事を廃止した。神官たちは、今こそ自分たちの時代が到来したことを感じとっていた。
 神官たちによる勤王義勇隊の結成は、まず遠州報国隊が口火を切った。続いて、遠州日坂の八幡神社神主誉田束稲が駿河の三保神社神官太田健太郎、草薙神社森斉宮らを説き、駿州赤心隊が結成された。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員およそ80名で、2月23日に、駿府浅間神社で結隊式が開かれた。
   

 有栖川宮大総督以下の東征軍が駿府に到着する3月5日、赤心隊員全員が、駿府の西を流れる安倍川の河原に集まり、大総督宮を出迎えた。赤心隊員連名で東征軍参謀林玖十郎に宛てた従軍願書には

 「――――粉骨砕身仕(つかまつ)り、赤心報国ノ微忠仕リタク」とある。

 安倍川にかけられた急造の仮橋を渡り駿府城入りした東征軍本隊は、3月5日からおよそ一ヶ月にわたって駿府に滞在した。滞在が長引いたのは江戸から勝海舟の密書を携行した山岡鉄舟が、駿府に西郷隆盛を訪ね、その提示した条件を京都に裁下を仰ぐのに手間どったからである。
 慶喜討伐の東征軍を迎える江戸城内は紛糾(ふんきゅう)していた。天皇を載く東征軍といえども薩長が名をかりているに過ぎない、断乎討つべしとする主戦論が大勢を占めようとしていたのに対し、慶喜はいち早く恭順の意を表し、上野寛永寺内大慈院に引きこもった。幕閣での非戦論の筆頭は、早くから大政奉還を唱え、かつ硬骨漢として知られる大久保一翁と、同じ開明派で薩長とも深い人脈関係を持つ勝海舟である。
 江戸は正に戦火にかかろうとしていた。東征軍の本隊に先んじて、先鋒は早くも箱根を越え、神奈川から六郷の渡しに達しようとしていた。勝海舟は江戸城総攻撃中止交渉を開こうと、密書を西郷隆盛宛に認めた(したためた)。精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)隊長山岡鉄太郎(山岡鉄舟)が使者を買って出る。
 東海道の宿場宿場は、すでに東征軍先鋒隊に押さえられている。鉄舟は通行査証として、前年の薩摩屋敷焼打事件で幕府側が捕らえていた薩摩藩士益満休之助を同行者として従えていた。官軍陣営を強行突破しながら進んだ鉄舟は、3月9日に駿府に着く。
 言い伝えでは、駿府到着の直前、由比宿と興津宿の中間にある薩た峠で鉄舟らは討手に包囲され、近くの旅宿望嶽亭に難を逃れたという。望嶽亭には、鉄舟がかくまわれた御礼にと置いていったフランス製小銃が残されている。望嶽亭は駿河湾に臨む海辺にあるが、ここから小舟を出して鉄舟を無事駿府へ送ったのは、次郎長だとの言い伝えも残されている。
 ともあれ、3月9日に駿府入りした鉄舟は、伝馬町の旅宿松崎屋源兵衛に宿泊している東征軍参謀西郷隆盛と会見、とりあえず3月15日に予定されていた江戸城総攻撃計画を中止させることに成功した。後に江戸薩摩屋敷で西郷と海舟が会見し、4月11日に江戸城が明け渡される。無血開城によって江戸を戦火から救う道は山岡鉄舟の決死行によって開かれたのである

 - 写真は新番組隊長格の松岡 萬 -




次郎長を抜擢

 駿府に駐留を続けた東征軍は、地元の治安責任者として、総督橋本実梁名で伏谷如水を「駿府町差配役判事」に任命した。幕府時代の駿府町奉行に代わるもので警察権を預かる民政長官である。
 伏谷如水は地元の親分次郎長の起用を決断した。すでに与力同心もいない空白状態の治安を維持するには、土地に詳しく、かつ子分という手足を持っている博徒の親分を使うのが最も有効なことを如水は知っていた。
 如水は部下を足袋の行商人に変装させて清水港に派遣し、次郎長の人物および周辺を予め調査している。単なる博徒でないことを見きわめた上で、如水は次郎長を駿府に呼び出した。清水港から駿府までは三里(12キロ)。朝出発し昼前に着くという距離である。出発する時女房のお蝶(二代目お蝶)に次郎長は言った。
「おれは罪多い身だ。出頭すれば二度と再びお前らの顔を見れないかもしれない。」
 次郎長は49歳、ちょん髷の鬢(びん)には白いものが混じっている。官軍からの出頭命令は罪状調べかと思ったのだ。
 腹をくくって出頭した次郎長に如水は、お上の御用をつとめるように命じた。固辞しようとする次郎長に如水は有無を言えわせなかった。「これからは天子様の世の中だ。お前も心改めて御奉公せよ。もしどうこう言うのであれば、お前の過去の罪科は、ここに残らず調べあげてある」
 次郎長は市中警固役を引受けた。同時に過去の罪科はすべて帳消しとなり、帯刀を許された。23歳の時渡世人の世界に入ってから26年間、十手に追われて一日たりとも心休まる日もなかった次郎長は、生まれ変わった人生に足を踏み入れることになったのである。明治と改元になる前、慶応4年の3月中旬だ。
 鉄舟が西郷隆盛と会見したのが3月9日。江戸城総攻撃は中止されたが、東征軍の一部は江戸に向かい、残りは駿府に駐留して、徳川方にとって重要な久能山東照宮とその海岸や、清水港の甲州回米置場など要所の警備に当った。
 粉骨砕身して微忠を尽したいと願い出た駿州赤心隊の従軍は許可された。隊員の半数が、4月8日に駿府を出発した有栖川宮大総督率いる本隊に従軍して江戸に向かう。半数は地元に残留し、久能海岸や甲州回米置場などの警備隊に加わった。三保神社神官太田健太郎や八幡神社神官八幡主殿らは地元残留組である。
 赤心隊の隊旗は「可」の字によく似た印を染め抜いた幟(のぼり)旗である。神社に仕える社人を従え、隊旗を先頭に市中を歩く赤心隊を、地元民らは「あれは社家隊だ」と呼んで、なかば嘲笑の響きをこめた。駿府も清水港も地元民は徳川びいきである。官軍と同じ「錦の肩章」をつけているのを見て「錦布れ(きんぎれ)」だとも揶揄(やゆ)した。次郎長の市中警固役は、このような軍隊組織に直結した警備隊とは一線を画し、役回りが異なっていた。物盗り、強請(ゆすり)、喧嘩、といった犯罪の取締りから宿場の交通整理に至るまでがその役回りだ。多年のライバルである黒駒の勝蔵が、池田数馬と変名して官軍にまぎれこみ江尻の宿場を通り抜けようとするのを、次郎長は摘発しようとしたが、伏谷如水にたしなめられた。黒駒勝蔵といえども天皇の軍隊に入っている以上、余計な荒立てはしないがいいとの如水の判断である。
 伏谷如水を民政長官、次郎長を警察署長とするコンビは、慶応4年3月から7月にかけて続いた。春たけなわから夏の終りまでという僅かな期間に過ぎないが、第二の人生をスタートした次郎長にとっては、大変大きな意味を持つ期間であった。後に次郎長を鉄舟ら幕臣に結びつける伏線となったのだ。
 この年には4月が二度あって、閏(うるう)4月には冷たい梅雨が続いた。上野の山にたてこもった彰義隊の隊士らは泥濘(ぬかるみ)に悩まされた。大村益次郎の指揮する新政府軍によって彰義隊が征圧されるのが5月15日。新政府は続いて、徳川亀之助(家達)を駿府藩主とすると発表した。700万石の徳川幕府は、70万石の一大名に格下げとなったのである。  江戸城を明け渡した後、清水谷屋敷で残務整理をしていた旧幕府は、駿府へ移動するに当って、その周辺の情況をつかむために、目付梶清三郎を派遣した。
 慶応4年5月と記された梶清三郎による「駿府表形勢書」は、4千字に及ぶ長文のものである。それには、家康を祀った(まつった)久能山東照宮が祭礼を差止められ、官軍の支配下にあること、4月上旬、甲州回米置場から7千俵程が江戸へ向けて積出されたこと、町奉行が廃され駿府周辺は、浜松藩家老伏谷如水なるものが取締りに当っていることなどが事細かに報告されている。
 その報告書のなかには、次のような注目すべき箇所がある。(「静岡県史」)

 「駿州三保明神神主太田出羽、草薙明神神主森斉宮、コノ両人朝命ニ従イ種々ノ次第コレアリ、厳罪ニ御所置コレアルベキ者ニ御座候」

 厳罪にすべきだと名を挙げられている太田健太郎、森斉宮の2名は、いうまでもなく駿州赤心隊員である。
「朝命ニ従イ種々ノ次第コレアリ」が厳罪に処すべき理由だが、その具体的事実は記されていない。
 後に(この年12月)、この2人はテロに遭うが、この報告書とテロ事件との間に因果関係がないとはいい切れないのである。




 新番組と松岡萬

  70万石に封じられた駿府藩の移動は徐々に始まっていた。6歳の藩主徳川家達が、江戸から旧幕臣を従えて駿府入りするのは、8月15日。先着して駿府藩を取りしきっていた大久保一翁が、江尻宿まで出迎えた。
 すでに江戸は東京と改められている。(7月17日布告)
 駿府藩の発足と入れ違うように、伏谷如水は7月2日、浜松へ帰任した。官軍管制下の駿府城の引渡しが滞りなくすんだからである。次郎長は、大政、小政、増川仙右衛門ら主だった子分を引連れ、帰任する如水を浜松まで送った。
 短い期間であったが、如水と次郎長は意気が通じていた。大藩の家老と博徒の親分では身分違いだが、如水は事ある毎に次郎長を傍らに呼び、引立てた。英雄は英雄を知るである。
 如水は豪放な性格で、酒豪であった。次郎長は若い時酔って袋叩きに遭って以来、酒を断っている。浜松へ帰任のさい、駕篭の中で酒を呑む如水を、次郎長がたしなめたという一幕が東海遊侠伝に紹介されている。
 官軍が駿府を離れ、如水が浜松へ帰任してからも、次郎長の市中警固役は変わらない。治安責任ばかりでなく、地元の実力者としてのフィクサー役が次郎長を待ち受けているのである。
   

 駿府藩70万石を支えたのは、中老役大久保一翁、幹事役勝海舟、幹事役山岡鉄舟らである。このうち大久保一翁は財政、海舟は治安民政をそれぞれ担当した。
 ある日、鉄舟一門の松岡萬(つもる)が次郎長と会った。松岡の求めによって料亭の二階に現われた次郎長は、数人の子分を下の間に待機させた。松岡の身分は、徳川慶喜護衛の「新番組」隊長格である。新政府によって謹慎処分となった慶喜は、7月19日に水戸を発ち、旧幕府軍艦蟠竜丸に乗って7月23日に清水港に着、その日に駿府(静岡)宝台院に入った。水戸からは新番組隊士50人ほどが随伴している。慶喜は謹慎のために宝台院に入ったが、護衛の隊士らまで宿所を共にするわけにはいかない。また新番組隊士を駿府藩が召し抱えるわけにはいかない。70万石に成り下がった駿府藩には、それだけの力はなかったのである。彼らは宿舎も定まらない、宙に浮いたままの身分だった。
 ちょうど清水港を眼下に望む山のふもとに、廃寺同然となっていた久能寺があった。鉄舟没後鉄舟寺として再建された寺である。この久能寺を新番組隊士の宿所とすることが、次郎長と松岡萬の会談で話し合われた。50人に及ぶ旧幕臣たちの宿所をきめるには、実力者次郎長の斡旋(あっせん)な了解を取り付ける必要があったのである。
 慶喜が宝台院に入るのが7月23日だから、次郎長と松岡萬の会談は、7月下旬とみていいだろう。徳川家達の駿府入りする8月15日前後には大量の徳川家臣とその家族たちが、清水港や駿府に移住のためにやってきている。
 難民同然の無祿移住者たちを、清水港や駿府の地元民たちは、「お泊まりさん」と呼び、宿泊先の斡旋や炊き出しなどを行なって、温かく迎えた。




       - 写真は鉄舟寺 -




 咸臨丸事件

   咸臨丸事件の起こったのは、秋も深まった9月18日である。新政府軍艦富士山、武蔵、飛竜の3艦が、すでに半月前から入港している咸臨丸に向かって発射したパロット砲の炸(さく)裂音は、清水港の人びとを驚かせた。箱館を目指す途中、房総沖で台風に遭い難破した咸臨丸は、メインマストも欠き、砲門もない。あの万延元年、日章旗をひるがえして太平洋を渡った栄光の片鱗もない老朽艦となっている。わずか300トンばかりの艦に、箱館を目指す幕臣たち200人余りが乗り組んでいた。その大半は清水港で上陸し、艦長以下は駿府藩に出頭、あるいは民家に潜伏していたが、新政府軍艦の攻撃を受けた時は、まだ相当の人数が乗組んでいた。抵抗の手段を持たない彼らは砲撃が始まるといち早く、海に飛びこみ対岸の三保半島に泳ぎつこうとした。目撃者の言い伝えによると、衣類や刀を頭にくくりつけ、錨綱を伝わって海に入った。海岸までの距離は1キロそこそこである。
 旧暦の9月18日といえば、すでに初冬である。海は冷たい。ようやく泳ぎついた者の人数は不明だが、彼らを海岸で待ち受けていたのは、駿州赤心隊員太田健太郎の銃である。赤心隊は天皇の軍隊であり、新政府軍務官の指揮命令系統に直属する。咸臨丸は脱走艦であり、乗組の者は叛乱兵であり、賊兵である。健太郎の銃は容赦(ようしゃ)なく泳ぎ着く賊兵たちを狙った。しかし、「三保村誌」には、この銃撃で死者が出たという記録はない。
 けっきょく、咸臨丸に踏みとどまっていた副艦長春山弁蔵以下7名が、新政府軍の攻撃の犠牲となった。斬殺された7名の死体は湾内に浮遊していたが、「賊軍に加担した者は打ち首」のおふれを恐れて誰も始末する者がいない。
 「死ねば仏だ」と次郎長は言い、子分を使って湾内を浮遊する死体を収容し、巴川の畔に手厚く葬った。
 新政府は駿府藩に対し、脱艦咸臨丸の詮議を厳しく求めていた。ちょうど天皇が京都を発ち東京に向かう時期と重なり、沿道の治安に新政府は神経をとがらせていたのである。駿府藩としても、次郎長のお上を恐れぬ処置を放って置くわけにはいかない。
 幹事役山岡鉄舟は、次郎長の出頭を求めて質した。次郎長からは「仏に官軍も賊軍もあるものか」という言葉が返ってきた。
 薩長も徳川もない。次郎長には、日本は1つだという国家観ができていたのである。鉄舟はいたく感銘し、翌年建てられた殉難者の墓石に「壮士墓」と揮毫したばかりでなく、「死シテ万世ニ名アリ」の賛をした色紙を次郎長に書与えた。次郎長と鉄舟の終生の交わりは、咸臨丸事件から始まったのである。




 連続テロ

   明治元年も残り少なくなった12月18日の夜、数人の男が三保神社神官の邸に押入り、神官太田健太郎を殺害した。寝間にいっしょにいた妻のさえと2歳の希豫太郎および同居の健太郎の実父鈴木省之助は無事であった。羽衣伝説で名高い三保神社は格式も高く、社領百石に及ぶ。神官は土地の人たちから「太田の殿さま」と呼ばれていた。
 4日後の12月23日、こんどは草薙神社の森斉宮が襲われ、重傷を負った。
 連続テロに遭った太田健太郎、森斉宮はともに駿州赤心隊員である。襲撃の犯人が赤心隊に意恨を持つ徳川家臣であることは、誰の目にも明らかだ。とくに健太郎は、先にもふれたように咸臨丸事件の際、銃を持って逃走者たちを追い回したという実績がある。
 赤心隊は錦の御旗をいただく天皇の軍隊である。天皇の軍隊を徳川家臣が徒党を組んで襲ったという事実が明るみに出れば、駿府藩は取り潰しものである。駿府藩は事件の穏便な処理に全力をあげた。一方、被害者とくに太田健太郎の遺族は、神官職を無事継承させるため、穏便に処理する工作を始める。
 健太郎の妻さえと子供たちは、事件の直後、三島大社神官矢田部盛治を頼って三島に避難する。年が明けた明治2年正月のことである。
 矢田部盛治の残した日記に、事件をめぐる動きが詳細に記録されている。
  「明治二己年 日記 正月ヨリ十二月●
     三島大社神官 矢田部式部」
 と表紙に記された冊子がそれである。この矢田部日記に、次郎長が再三にわたって登場するのである。
 太田健太郎暗殺事件に関する矢田部日記の記事を追跡してみよう。




 明治二年一月の矢田部日記

  「明治二己年正月元旦

  一、御宮へ早朝出勤、御末社へ拝礼帰宅、社家夫々罷出候間、礼請□□例年之通候事(以下略)」

 に続き、一月三日の記事に次がある。

 「一、三保太田健太郎妻おさえとの子供三人乳母三人其外被連候間、尤喪中之儀ニ付、細小路庄七方へ届、   逗留為致候積リ。   夫々世話イタシ遣候事」

三保太田健太郎の妻おさえ殿が子供三人および乳母三人そのほかを連れて来た。もっとも喪中のことであるに付、細小路庄七方へ届を出し、逗留させるつもりである。との意である。そのほかを連れて来たという「そのほか」は護衛役ではないかと思われる。清水から三島までおよそ50キロの道中を、女子供だけでは不安である。
次いで1月14日および15日には、太田健太郎暗殺事件に関して周辺が動き出したことをうかがわせる記事が登場する。  「 同 十四日   一、三保一条ニ付、昼時頃ヨリ幾四郎仙助差遣候事。    (中畧)   一、七ツ時頃三保一条ニ付、吉原宿平八夫々ヨリ手紙持参。右ハ省之助殿迎トシテ参リ候間、尚又昨日   駿府●御飛脚差遣候ニ付、駿府ヨリ元与力ニテ違山孝助殿ニモ参リ候間、夫々御相談コレアリ、是非庄之   助殿ニモ清水●モ御出御座ナク候テハ相済マズ候事ニ付、夫々相談致、明朝庄之助殿孝助殿、平八出立之   積リニ相成候事」  「 同 十五日   一、庄之助殿出立、彼是六ツケ敷、漸ク昼時頃御出立相成候事。   一、昨日差遣候幾四郎仙助、吉原宿ヨリ帰候事。   一、三保一条ニ付、オムツトノヨリ安全之御神楽奉納、則将監ヘ申付修行致、御祓差遣候事。    (中畧)   一、軍務官会□竹山主馬殿出面会致候処、鈴木孝次郎殿ヨリ庄之助殿へ手紙持参、夫々咄コレアリ、然ル     処庄之助殿ニハ出立致候ニ付、手紙預リ置、茶漬差出候事」

吉原宿平八は小松屋平八である。平八が事件の処置の中心になって動いたようだが、具体的にどのような役 割を演じたかは、これからの研究に待たなければならない。省之助は太田健太郎の実父鈴木省之助であり、おさえやその子供らの介添役として三島に来ていたのではないかと考えられる。
 この時点で当事者の最大の関心事は、非業の死を遂げた健太郎の遺児希豫太郎が、三保神社の神官職を継承できるかどうかである。徳川浪士の意恨など複雑な問題がからめばからむほど、それはむずかしくなる。穏便に済ますために要路への働きかけが始まる。
 次郎長が日記に登場するのは、こういったさなかである。

 「 同 二十四日     (畧)   一、三保鈴木省之助殿今日被帰。徳川様ヘモ相願、長五郎平八心配致呉、追々取極リニ相成候旨、夫々御咄御座候事」

 ここに記されている長五郎(傍線筆者)が次郎長であることはいうまでもない。これが初出だが、吉原宿の平八と併記されているところから見て、矢田部盛治にとっては、すでに面識があるようだ。ここでは、健太郎の父省之助が清水へ帰り、駿府藩主徳川家達への働きかけをしようとする動きが始まったことをうかがわせる。次郎長がいろいろ心配して、徳川家臣たちへ仲立ちしようとしているようである。

 「 同 二十五日   一、三保ニテ隼人儀是非々々貰度旨達テ披申候ニ付、今日差遣候旨挨拶イタシ、右ニ付、省之助殿おむつ   トノおさえトノ小袖代金弐拾両、鰹節壱連、下女下男拾五人ヘ金壱分ツツ三両三分御祝ヒ披下候間受納、   酒差出盃イタシ縁談取究候事」

 「 同 二十七日   一、三保一条ニ付、酒井候ニモ当方ヘ御立寄披下候積リニ相成、右ニ付テハ此節之模様如何相成候哉、承   知致置度、殊ニ八幡方ヨリモ我等ニ夫々相談モ御座候ニ付、駿府ヘ参リ候様致度、若出張出来兼候ハハ、   八幡ヨリ当方ヘ参リ候趣間合申越候ニ付、我等儀モ酒井候御立寄被下候ハハ内願致置□□□節句後我等駿   府ヘ罷越候積リ、右ニ付三保并八幡●手紙為持、今朝庄七差遣候事」

 酒井候とは、駿府藩主徳川家達の側用人酒井忠績である。八幡は、八幡神社神官の八幡主殿。太田健太郎や森斉宮らとともに駿州赤心隊の中核となった人物である。矢田部盛治自身が、この二人を介して駿府藩庁へ働きかけようとしている。

 「  同 二十九日   一、夜五ツ時頃、一昨日駿府●差遣候庄七、三保ヨリ相帰リ、太田方ニテモ十九日家内一統三保ヘ帰宅致   候旨、尤三保ヨリモ使壱人庄七同道致候事」

  三月に入る。

 「 同 四日     (畧)   一、多久又八郎殿属赤心隊中村志津馬罷出候間、又三郎取次致候処、右申候処ハ又八郎ヨリ披申付、遠州   辺●参リ東京ヘ帰宅致候処、路用遣切差支、三保省之助殿ヘ相願候積リニテ罷出候得トモ最早出立ニ付、   当惑致候間、金五両東京着●取替呉候様、達テ披申候□□□□□。壱両二分貸遣候旨留守宅ヨリ申越候   事」

 赤心隊員中村志津馬と称する男が、東京までの旅費を貸してくれといって現われる件である。赤心隊が有栖 川宮大総督の率いる東証軍本隊に加わって駿府を発つのは4月8日のことであるから、この中村志津馬という人物は、別行動をとっていたように思われ、疑わしい節がある。一両二分というのは、今の金額に換算すれば、十万円にもなろうという大金であるが、矢田部家では赤心隊と称するこの人物に融通した。
 続いて3月7日には酒井候の来訪があり、矢田部盛治はこれを受けて駿府に向かって出発し動きがあわただしくなる。

 「 同 七日   一、昼時頃酒井候仁田大八郎川口秋平御案内ニテ御立寄被下候。尤丸屋常蔵モ参リ居御待請致居御酒差   出、我等面会夫々御咄モ有之、尤御馳走数種々御願申上置、委細御承知ニテ八ツ半時頃御帰リ被成候。酒   井候御土産トシテ松絵角皿拾人前被下候事。
  一、我等儀明八日出立、駿府●罷越候ニ付、右之段刑部ヘ申聞候処、社家組代□□トシテ罷出候事。」

 来訪した酒井候に対し、矢田部盛治は最大限の敬意を払って歓待した。酒井候は手土産を用意している。事件の始末についていろいろお願いしたことはいうまでもない。酒井候は「委細承知」して午后3時頃帰路についた。盛治は翌8日駿府に行くことを決意する。

 「 同 八日   一、三保一条并徳川様ヘモ正迂宮相済候ニ付、御被差上度、旁ニ付七ツ半時頃自宅出立、尤吉原宿●駕籠   人足弥七、文左衛門金壱分、七ツ時頃奥津寺下●参リ、寺下ヨリ金壱分ニテ三保●舟雇、夕方三保太田方   ヘ着、省之助殿始御家内一統ヘ面会、夫々御咄有之、此節ハ清水御奉行ヨリ重役壱人ツツ見廻リ、浅草小   揚ヶ之者八九人ツツ昼夜交代詰切ニ相成居、今晩ハ太田方へ止宿致候事。」

 午前5時に三島を出発、吉原まで駕籠、午后4時頃興津着、舟を雇って三保へ渡り、三保神社太田健太郎方に到着し、鈴木省之助らに会い、同家へ泊る。

 「 同 九日   一、主殿其外夫々御相談モ有之旁ニ付、昼時頃ヨリ三保太田方出立清水宿ヘ参リ長五郎方ヘ立寄面会致、   夫々挨拶申述、暫く御咄、引取、駿府八幡主殿方ヘ暮ニ着イタシ夫々相談、今晩ハ主殿方ヘ止宿イタシ種   々御咄イタシ罷在候事。」

 3月9日昼頃三保を出発した矢田部盛治は、清水に着くと早速、長五郎即ち次郎長を訪ねた。次郎長は明治2年のこの時点で、上町に居宅を構えていた。盛治が真っ先に次郎長を訪問したのは、三保一件を解決するについて次郎長が大きな影響力を持っていたことを裏付ける証左であろう。次郎長のところで暫く話し込んだ盛治は、次いで駿府に行き、八幡主殿方に泊る。

 「 同 十日   一、早朝八幡主殿同道ニテ駿府町奉行調役鈴木草太郎殿林屋町飯内宅ヘ罷出面会致、三保一条夫々相伺候   処、種々御内意有之、草太郎殿ニモ厚ク心配致呉候事ニ付、何レニモ省之助ヘ篤ト申聞候。□□□引取八   幡出立、夕方三保太田方ヘ参リ夫々相談、今晩ハ三保ヘ止宿致候事。」

 駿府藩が静岡藩と改められるのは明治2年6月である。矢田部日記では旧幕府時代の官称をそのまま使っている。藩庁の責任者に会い、三保一件についていい感触を得たことが、ここでは書留められている。

 「 同 十一日   一、今日モ三保ヘ逗留、種々御相談致、罷在候事。

 「 同 十二日   一、夫々御相談モ行届、御暮方儀ハ清水湊戸田屋六右ヱ門江川政八両人方ヘ仕送相願候積リ相成、旦又鈴   木草太郎殿ニモ役取方御目論見旁三保ヘ御出モ御座候趣ニ付、見合居候得共、御出無御座候ニ付、九ツ時   頃ヨリ主殿同道おさえトノ召連三保出立、清水長五郎方ヘモ立寄、夕方八幡主殿方ヘ着イタシ候事。
  一、夜ニ入、鈴木草太郎殿方ヘ主殿ニテ罷出候処、草太郎殿今日清水ヨリ三保ヘ参リ留主ノ趣被申開、扨   々行違ニ相成、不都合至極、八幡ヘ帰リ今晩ハ止宿候事。」

 駿府から三保へもどった盛治は3日間逗留。その間に、健太郎の妻おさえを連れ、八幡主殿同道で次郎長に会う。12日の日記にはそのことと併せて、太田家の暮し向きについて、清水港の旧家戸田六右衛門と江川政八に仕送りを依頼することが記されている。駿府藩庁の鈴木草太郎にその目論見を相談するつもりで来訪を待受けていたが、見えないので盛治の方から駿府へ出向くことにしたのである。ところが、これが行違いで盛治が駿府に向かっている間に鈴木草太郎は清水から三保へ来ていたのである。


次郎長と矢田部盛治
 長五郎の次郎長が矢田部盛治日記に登場するのは、「清水長五郎方へも立寄」というこの日の記述を含めて都合3回になる。第1回めは、明治2年2月24日の「徳川様へも相願い、長五郎、平八心配致してくれ」という一条。第2回めは3月9日、駿府へ出向くため三島から三保へ来ていた矢田部盛治は、清水で真っ先に次郎長宅を訪問する。「清水宿へ参り長五郎方へ立寄り面会致し、それぞれ挨拶申し述べ暫く相咄し」という一条である。第3回めが、おさえと、八幡主殿同道で長五郎方へ立寄った3月12日ということになる。  いずれも、太田健太郎暗殺事件を穏便にすませ、三保神社神官職を太田家が継承できるようにとの駿府藩への陳情を円滑に進める上で、次郎長が不可欠のサポーターであることを裏付ける記述である。藩主徳川家達の側用人酒井候への働きかけ、地元の旧家戸田六右ヱ門、江川政八による経済的支援の依頼など、次郎長抜きには考えられなかったのである。
 では、次郎長と矢田部盛治を結び付けたきっかけは何であったか。まず第一に、次郎長は東征軍が駿府を占拠していた時期に、民政長官即ち駿府町差配役判事伏谷如水の配下として地元の治安責任者の地位にあり、太田健太郎暗殺事件の起こった明治元年12月の時点においても、治安を掌握する実力者として駿府藩から一目も二目も置かれていた。事件のあと太田健太郎の妻おさえら家族が三島に避難するに際して、介添え役をつとめたのは次郎長だったのである。東海遊侠伝の次郎長三島行きの記述は、それに符合するのである。

 さらに、矢田部家と伏谷家が親戚関係にあるという事実。このことは矢田部日記には触れられていないが、御子孫の高石さんが指摘するところである。伏谷如水と矢田部盛治との関係が、次郎長のこの事件で動く背景に働いていないとは言い切れないのである。
 伏谷如水は次郎長を買っている。単なる博徒ではない。矢田部盛治が問題解決のキーポイントを次郎長に求めたのは、不自然なことではないのである。
 ところで事件の結末はどのようになったのであろうか。矢田部日記を追うと判然とはしないながらも、およその輪郭が記されている。3月13日の日記には、駿府藩庁に出頭して書面(家督相続願)を差し出したこと、書面の文言が不備のため書直しを命ぜられたこと、藩役人と思われる人物や酒井候のもとへ献上物を進呈したことなどが記されている。矢田部盛治は打つだけの手を打って3月15日に三島へ引揚げる。
 3月18日には、兵庫という人物を太田家の養子として神官職後継者にする旨が記されており、21日の日記に、その兵庫が19日の夜三保につき、社家や百姓どもが多勢でにぎやかに出迎え都合よく運んだと記されている。
 駿府藩に差出した家督相続願がどうなったかを示唆する記述は、4月4日にあらわれる。

 「 同 四日   一、三保ヨリ家督相続願ニ付、徳川様ヨリ韮山ヘ御取計方御問合ニ相成居候旨申越候ニ付、如何相成居候   哉、社領御解願之義モ如何相成候哉、人別之事ハ如何相成哉、卯年御預ケ金御下ケ之儀如何相成候哉、右   伺トシテ韮山ヘ大村刑部差遣候処、同人夕方相帰、右申候ハ岡田三郎ヘ面会夫々伺候処、三保一条ニ付徳   川様ヨリハ未タ何共御問合無御座候旨、社領御解願之儀両三日前御下知御座候処、右願之通ニハ難出来神   務ニ拘リ候儀ハ神主方ヘ相達、其外政務、拘リ候儀、却テ村方ヘ申達候様被仰渡候旨被申聞候、人別之儀   是●差出候振合ヲ以、社中之儀当方ヨリ書面ヲ以相伺候様、村方之儀ハ名主方ヨリ同様伺候様被申聞候。   卯年預ケ金之儀ハ三科鉉太郎之儀モ東草ヘ引越候ニ付分リ兼候間、何レ取調遣、追テ御挨拶致候旨申越候   事。」

 願書の裁可がどうなっているかについて新政府の出先機関のある韮山に人を遣って問合わせたところ、結論としては、どうもはかばかしくないようである。肝心の封鎖されている社領の解除は、両3日前に駿府藩へ指示があったはずだが、願書の通りには運んでいないということである。
 続いて4月7日の日記には、三保からの飛脚が重大な報をもたらしたことが記されている。鈴木省之助の書いた手紙には

 「肥後入牢被仰付、追々村方モ穏ニ相成候ニ付、此節肥後出牢致候テハ後難出来可申モ難計、酒井候ヘ内願   致度、常蔵参リ呉候様申越(後畧)。」
   

 とある。太田健太郎暗殺事件の犯人調べについては、三保神社社人の宮城島肥後と、徳川元家臣の中山鳳之助が検挙されたことまでは、「駿州神官太田健太郎等変死始末書類(東大史料編纂所蔵)」などの記録に残されている。三保からの飛脚が矢田部盛治に報らせたのは、宮城島肥後が逮捕され(3月27日)たことである。肥後は日頃から賭場などに出入りして身持ちが悪い男である。事件を物盗りの仕業として作り上げるためのいけにえとして肥後が挙げられたことは間違いないだろう。暗殺された健太郎の実である鈴木省之助の嘆願書の末尾の部分には、次のように記されている。

 「――勤王仕リ候悴之鬱憤モ晴レ両親ハ勿論、妻子●モ難有儀ニ御座候間、御慈悲之御沙汰有之、行々安穏ニ神役無滯事来候様仕度ニ付、極内密ニ御取繕方御周旋奉願上候以上」
                              (「駿州神官太田健太郎変死始末書類」)

 繰返していうが、遺族たちにとっては真犯人を挙げることよりも、無事に神官職を継承することが最大の関心事である。そのためには「極(ごく)内密に御取繕(とりつくろい)」することをあらゆる手段を使って進めなければならない。藩主の側用人酒井候や、清水次郎長は実力者として工作のキーポイントだったのである。
 このあと矢田部日記のこの事件に関する記述は、4月25日で終る。それには、吉原宿の小松屋平八の来訪に触れ、入牢中の肥後が病気にかかったことが記されている。  事件がどのような形で結着したかについての記録は皆無である。矢田部盛治日記のその後を、さらに綿密に追跡すれば、それが明らかになるかもしれない。しかし、次郎長がこの事件に関わったという事実は、明治2年1月から3月までの期間の矢田部日記に3回にわたって記述されている事がらだけからも、十分にその一端を知ることができると思う。

  - 写真は『矢田部日記』表紙と明治2年1月1日の日記 -


白昼の刺客
 「肥後入牢」の記事からいくらもたたない明治2年5月22日の白昼、次郎長の妻おてふ(二代目)が清水港上町の自宅で、浪士風の男に斬られた。次郎長の留守中である。子分の田中啓次郎らが逃げる犯人を追いかけ、久能寺附近で男を討果たした。おてふを斬った男は、久能寺にたむろする新番組隊士とされるが、なぜおてふを斬ったか、動機は謎である。
 新番組は将軍護衛役として編成された隊である。かつて名称がそうであったように、選りすぐった「精鋭隊」である。幹部の中条金之助、松岡万、さらに山岡鉄太郎らは、いずれも剣を持たせれば一流中の一流の腕前である。と同時にこの3人は、文久3年、新徴組の前身浪士組の統括者として、清川八郎暗殺事件に関わる。浪士組の巨魁石坂周三、村上俊五郎らも、この暗殺事件に関わっている。鉄舟ファミリーを形成するこのメンバーの周辺には、何となく血腥いにおいが漂っているのである。
 箱館五稜郭に立てこもった榎本軍が敗れ、戉辰戦争が終結したのは、明治2年5月18日のことである。太田健太郎暗殺事件の終幕は、ちょうどこの内乱が終るのと時期を同じくしている。
 二代目おてふが白昼非業の死を遂げたのは、次郎長の身代わりとなったのではないか。犯人の真の標的は、次郎長だったのでないだろうか。もしそうであるとするならば、おてふの暗殺事件は、赤心隊員に対するテロの延長線上にある。矢田部盛治の日記に登場する次郎長は、伊豆伊吹隊の矢田部や赤心隊の八幡藩主殿の訪問を受け、反徳川と誤解されかねない行動をとっていたのである。〈田口英爾〉

 (「矢田部盛治日記」の解読は、国立歴史民俗博物館高橋敏教授、清水郷土史研究会池谷市郎、古文書研究家野口義信の各氏の御教示による)




駅弁に一役買った次郎長


「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり」と唱歌にもなった岡蒸汽は、文明開化の先端的大事業であった。
 明治20年4月に江尻から静岡間が敷設され、2年後には国府津―静岡間が、翌23年には静岡以西が完成して東海道線全線が開通した。海の蒸汽船に代わって機関車が煙を吐く岡蒸汽の登場である。この鉄道工事で次郎長が知られざる役割を演じたと「東海軒繁盛記」は記している。
 鉄道開通前には、東京・静岡間は徒歩で5日。その頃は、米など貨物は海路を清水港に陸揚げされて各地に捌かれており、この荷役を仕切っていたのが清水の次郎長であった。ある日、静岡の両替町で米屋を営む山西屋を訪れた次郎長は、「今度静岡に鉄道を敷く工事が始まるので鉄道省のお役人が江尻と静岡にやって来る。江尻の工事は私が段取りするが静岡の工事までは手が届かない。山西屋さん、あんたに一切を頼むから工事万端、抜かりのないように現場の面倒をみてくれないか」と頼んだ。山西屋滝蔵は次郎長のこの頼みを聞いて、来静した鉄道関係者の世話役を引受け、食事の世話から人夫の斡旋、用地、用材の買上げに至るまで日夜親身になって工事を助けたので、さしもの難工事も無事完了した。
 明治22年二月1日、話題の岡蒸汽は静岡停車場を午前7時15分、市民3万余人の歓声をあとにその黒い勇姿をどっしり動かしながら一路新橋を目指して出発し、同日の午後2時頃新橋駅に到着した。静岡―東京間を僅か7時間という早さに人々は驚き、大きな喜びに湧いた。この山西屋の加藤滝蔵に対し、東京鉄道局は工事中の多大な奉仕への感謝の意をこめて、静岡駅構内での弁当販売の許可を与えた。つまり次郎長が弁当の「東海軒」誕生に一役かったのである。〈服部令一〉

  - 写真は昭和30年ころの東海軒本社ビル -

【編集室から】

 ●あけましておめでとうございます。旧年の11月、竹内宏会長は清水市制70周年記念式典で宝井馬琴師匠らとともに特別功労者として表彰を受けました。
 ●平成7年は乙亥(きのと い)の年。暦は還(かえ)るといいますが、60年前の乙亥は軍靴の音が高まった昭和10年で不幸な戦争へ猪のように突入して行く序の口の年となりました。もう一つ前の乙亥は明治8年。わが次郎長は57歳と健在で、清水港の回漕問屋の店主たちに、蒸汽船の導入を説いて回っていました。
 ●明治8年は、ロシアとの間で樺太千島(からふとちしま)交換条約を交わした年でもあります。全権としてペテルブルクへ行って調印したのは、あの榎本武揚です。清見寺境内の咸臨丸殉難者の碑に「食人之食者死人之事」と揮毫したのも榎本武揚で、徳川に殉じた旧友春山弁蔵らに献じた挽歌です。
 ●旧年秋に計画した「次郎長ツアー・いわき市訪問」は準備不足で参加申込みをいただいた方がたには、誌上を借りてお詫びを申し上げます。受入れ側のいわき市の方は大変熱心で、愚庵会の柳内守一さんなどは、わざわざ手間と費用をかけて、井上剣花坊評釈の「東海遊狭伝」の複刻本を作成して、清水の人たちにさし上げようと用意までされました。今年こそツアーを実現したいと思います。計画は次号の会報でお知らせする予定です。



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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