次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第3号



愚庵天田五郎と次郎長 

   ●親方様に宛てた五郎の手紙 次郎長に宛てた天田五郎の手紙
   ●幕臣たちと次郎長―――関口隆吉・松岡 萬ら
   ●「ふじがねにのぼりて」歌碑の建立

 

 天田愚庵にとって、清水港は第二の故郷であり一時は山本長五郎の養子五郎として、次郎長と親子の縁を結んでいたことは、よく知られている。
 いまさら言うまでもないが、次郎長が清水港の生んだ英雄として、テレビや映画、浪曲や講談などで広く語られるのは、愚庵の書いた「東海遊侠伝」を源流としている。次郎長が有名になったのは愚庵のおかげだ、といってよい。


  一名次郎長物語とサブタイトルをつけられた「東海遊侠伝」が出版されたのは、明治17年(1884)だが、原稿が書かれた時期は、それより5年以上前である。それを裏付ける愚庵の手紙が残されている。明治12年に東京浅草で写真術の修業をしていた時代に、天田五郎から次郎長に宛てた手紙がそれである。

『親方の御しゃしん(写真)二枚ほど至急御送り下され候様願い上げ奉り候。
 其後は御無音仕り誠に御申訳これなき事に候。さて皆々様ますます御機嫌よくいらせられ候わんと恐悦に存じ奉り候。且つ又、私ことも去る一日京着仕り、当今は浅草奥山の写真師江崎礼二と申すものの弟子に成相り、何れ七月迄には一人前のしゃしん司に相成り候心得に御座候。其のせつは又々罷り出、相替らず御世話様に相成るべく候。先生の家に参り候処、先達て清水表より送りくれ候そてつは是れなりと、庭にうえてこれあり、いきほいはますますよろしく、先生も大によろこんでおられました。あの本は私国へ帰りまする時、先生の家へあずけ置候処、諸方から借りられ、なくさぬように誠に骨を折りたりと咄しこれあり候。余り借りてがおおい故、かえって出版などの都合のために困り入ります。
    五月五日
      (追伸略)
                                      天田五郎 
       親方様始メ皆々様

 宛名の親方様と次郎長のことである。五郎はこの手紙にもあるように、一人前の写真師になるつもりである。先生の家というのは、四谷にある山岡鉄舟の家のことである。ここの庭には清水から移植した蘇鉄が植えてあった。明治12年、天田五郎は清水を発って故郷の兄に会いに行くが、途中東京で山岡鉄舟を訪ね、そのさい持っていた「東海遊侠伝」の草稿を鉄舟に預けた。手紙にある「あの本」とはこの草稿のことである。内容がたいへん面白かったので諸方から借り手が殺到し鉄舟も困ったことがうかがわれる。
 天田五郎が鉄舟の仲立ちで初めて次郎長に会ったのは、明治11年11月のことで、次郎長の許に寄寓し、次郎長の援助で父母妹探索の手づるを各方面に求めていた。傍らで次郎長の口から語られた、その半生の武勇談や思い出話を聞き書で筆に書き留めていた。これが「東海遊侠伝」の草稿で清水を発つさい携行した。未定稿で分量も短いものだったと思われるが、後に加筆し、幕臣で、明治初期の一流ジャ−ナリストだった成島柳北が校閲し、山岡鉄舟筆の髑髏の絵と次郎長肖像写真の石版摺りを入れて立派に仕立てられた東海遊侠伝が出版されたのは、先にも述べたように5年後の明治17年である。

  写真は次郎長の養子となったころの天田五郎






  富士市大渕の次郎長開墾地

富士裾野から御両親様へ

 五郎が速成の写真師修業を終え、父母妹の行方を尋ねて旅回りの写真師となって伊豆方面を遍歴した後、清水港に帰ってくるのは明治14年のことである。この年の2月、政五郎の名で次郎長の養子となっていた大政が亡くなり、五郎は大政に代って養子となった。富士裾野開墾場の指揮も五郎がとることになった。


 この時期、開墾場から次郎長とおてふに宛てた手紙には「御両親様」となっている。この手紙は当座資金の不足を訴えたもので、「この間届けていただいた十円のうち、五円は返済にまわし、三円三十銭は米二斗九升一合一勺の代金、二円二十八銭はさつまいもを買って残金はなくなった。これから始まる茶の耕作や、いもの植付などの準備に費用がかかるので察してもらいたい」という趣旨の内容になっている。
 明治17年2月、次郎長は全国一斉の博徒刈り込みにひっかかり、静岡井之宮監獄に収監される。渡世人稼業から足を洗っていた次郎長にとっては全く不本意なことで、これは薩摩出身の県令(知事)との鞘当てがあったものと私は推測する。明治16年から静岡県令だった奈良原繁は、薩摩藩出身で、文久2年に起きたあの生麦事件で英国人リチャ−ドンを斬った奈良原兄弟の弟の方である。元来が過激な性質で権力風を吹かせるところから、次郎長とはそりが合わなかった。梅蔭寺の三代前の住職、月心和尚が昭和14年のサンデ−毎日の記事で語っているところによると、奈良原繁が東海道線の敷設工事を次郎長に請負わせようとしたところ、次郎長はきっぱり断ったという。

 次郎長が検挙された時の情況や、その後始末について、三代目おてふが事細かにメモをとったという覚書が残されている。

 「明治十七年二月廿五日朝、長五郎ほばくに相成候。其のあとすぐにたんてい中川、堀屋、其の外五、六人まいり、わたくしにむかい、いろいろとたづね─―」


 という書出しに始まるこの覚書には、おてふが東海遊侠伝の出版などのために東京に行っている五郎のもとへ、清太郎(おてふの連れ子)を使者として遣わし、五郎はすぐに清水に帰って次郎長の面会に行ったということなど、あわただしい情況が刻明に記されている。
 奈良原繁に代わって、徳川家臣だった関口隆吉が静岡県令になり、次郎長は刑期を余して釈放された。この人は、広辞苑の編者新村出の父でもあり、県令時代、東海道線の開通直後に鉄道事故で亡くなった。その事跡については、静岡浅間神社境内にある長大な石碑に刻まれている。事故で関口が亡くなった直後、当時静岡中学校(現静岡高)の生徒だった新村出は、県警部長の相原敬吉(この人も旧幕臣)といっしょに清水港波止場の末広に次郎長を訪ねた。このことは新村が法月吐志楼宛てた手紙に書かれている。

   「明治二十二、三年の頃、相原敬吉部長に従ひて清水の次郎長の家を訪ひしは、小生十四歳のをりなりし―」




 旧幕臣たちと次郎長

   

   ここで、天田五郎から少し離れるが旧幕臣のことにふれよう。
 次郎長と旧幕臣たちとのつきあいは、たいそう幅広くかつ深い。山岡鉄舟とのつきあいは、これまでいろいろなものに書かれ、有名になっている。徳川幕府が崩壊し、慶喜に代わって幼い徳川亀之助(家達)が徳川家を継ぎ、七十万石の一大名として駿府藩に封じられた時、江戸から一斉に幕臣たちが清水・静岡に移動した。
時期は慶応4年が明治元年と変わる1868年の夏から秋にかけてがピ−クで、人数は家族たちも含めて二万人に達した。藩主家達の下で駿府藩を支えたのは、中老格の大久保一翁、幹事役の勝海舟、山岡鉄舟らで、いずれも江戸無血開城の立役者となった和戦派の人たちである。
このうち勝はもっぱら江戸(明治元年7月に東京となる)について関口隆吉や前島来助(郵便創始者)らと尾張屋敷を足場に新政府とのつなぎ役をつとめた。対外交渉役の公議人には杉浦梅潭がつく。この人は、最後の箱館奉行として五稜郭を新政府に円満かつ完璧な形で引渡し、江戸に引揚げた後、明治元年の末、静岡に来た。この人は現長銀相談役杉浦敏介氏の曽祖父に当たる。
 江戸から大量に移動した幕臣たちのうち、多くは無禄移住者である。一挙に十分の一に縮小された徳川家が、直参の旗本、御家人たち全員を召し抱えることはとうてい出来ない。それぞれの家族たちも含め、収入の道を失った幕臣たちが、いわば難民となって清水・静岡にやって来たのである。地元の人びとは、彼らをお泊りさんと呼んで宿泊場所を堤供したり、炊出しをやって温かい手をさしのべた。次郎長もその一人であったことは、地元の人達によって語り継がれている。

 松岡萬(左写真の人物)という幕臣がいる。たいへんな勤皇家で安政の大獄で斬罪となった頼三樹三郎の片腕を、小塚原の刑場から掘り出し、自宅の神棚に祭ったという奇行の持ち主である。幕臣時代は山岡鉄舟の下で、徳川慶喜の護鋭隊幹部となり、組新のさいには水戸から駿府宝台院に謹慎のためやってくる慶喜に随行した。精鋭隊は駿府藩になってから新番組と名称が変わるが、隊士たちの大半が無禄の浪人となって、清水村松の久能寺(後の鉄舟寺)あたりを足場にしたらしい。新番組隊士は、後の牧の原開墾の先駆者となる。  松岡萬と次郎長との関わりは、「東海遊侠伝」にも出てくる。松岡萬公に呼び出されて料亭の二階で会うというくだりがそれである。時期や用件は記されていないが、私はかなり早い時期ではなかったかと思っている。宝台院の門前には、慶喜信奉者の新門辰五郎が江戸から移住して護衛役を買って住んでいたが、次郎長、新門辰五郎、松岡萬と結ぶ線が考えられないわけではない。  明治21年、東京市ヶ谷の松岡萬から、次郎長に宛てた手紙が残されている。鉄舟が亡くなったのは、明治21年7月17日であるが、その直後、9月24日と手紙の日付はなっている。内容は、鉄舟所有の土地売却についての世話を次郎長に依頼したものである。このさい全文を記録しておこう。
                     

(封筒の宛名と裏面差出人)

 駿州清水港 波止場壱番地

    山 本 長 五 郎 様

  明治二十一年九月廿四日

        東京牛込区本村町六番地

                松 岡 萬                


拙簡相宣候、秋暑之侯、貴老御始ノ皆々様御揃御壮健之段奉大賀候。随て当方無異相暮居候間、乍悼御安意可披下侯。陳ハ余之義にも無之、山岡大先生元上十分一御旧郎地之義は先頃鉄舟寺建築之為メ帰県之柳、貴老井二佐野誠一郎氏え相話侯望手有之、一千円程こも御譲受申度趣、御相談有之侯二付、御出京之節大先生へ章老卜共二申上條処、鉄道架設出来之上は児地之御往復こて御旧邸へ御家作相成、抑止宿被遊侯御見込こて、寺御承知之通、御断二相成候。然ルニ、御幸去後、該御郎地御子乾シ被成候事こも可相成二付、曽て御話シ之如キ直段こて購求者有之候ハ、御世話有之度此投御間合二及侯、尤御奥方棟ょり著殿様へ御話シ済之義にて小子一己之義こは無之侯。此投為念申上置侯。何分乍御世話先方へ御聞合可被下條、此投御佑頼侯 不備

 明治廿一年九月廿掴日  松岡 萬

 山本玉琢殿


この手紙から、松岡萬が鉄舟寺の造営に深くかかわっていたこと、鉄舟自身が東海道線開通後、静岡の邸地は別邸として使おうと思っていたことがわかる。鉄舟の静岡にあった地所が、その後どうなったか、地元の史家から御教示を受けたいと思っている。当時の1千円といえば、今の億に近い金額だと思われるが、警視庁大警視となった松岡萬が、売却を依頼するほど、次郎長は信用が厚く顔の広かったことが、手紙からうかがわれる。




 伏谷如水とのこと

   明治2年、二代目おてふが、白昼、浪人らしい男に斬られるという事件が起こった。犯人が誰かを証據づけるものはない。新番組隊士木暮半次郎とか山崎某といった説があるが、創作の産物にすぎないようである。しかし、この事件の起こるすこし前、明治元年の暮に、三保神社神官と草薙神社神官が連続してテロに遭う。これと無関係ではなさそうだというのが私の推理である。
 明治元年12月18日の深夜、三保神社神官宅に複数の浪人らしい男が押入り、神官の太田健太郎が斬殺された。さらに22日、草薙神社が襲われ、神官森斉宮が重傷を負った。両者ともに、駿州赤心隊員である。赤心隊は、神官らによる官軍参加の義勇隊である。咸臨丸戦争で、太田健太郎は三保海岸で、咸臨丸から逃げる徳川兵を追い回した。神官暗殺はその遺恨による報復テロと思われる。次郎長がこれとどう関わったか。
 「東海遊侠伝」の中に、次郎長が明治の初め、三島に行く話がある。一方、暗殺事件の直後、太田健太郎の妻と幼い子どもが、三島神社神官矢田部盛治方に避難したことが、「矢田部日記」に書留められていることを、私は最近になって知った。同時に、矢田部家が、伏谷(ふしたに)如水と近い親戚であることも知るに至った。当会の竹内宏会長が、昨年「文芸春秋」誌に次郎長のことを寄稿したさい、伏谷如水の御子孫という千葉県市原市の高石鶴子さんからご連絡があり、代々三島神社神官をつとめる矢田部家と、伏谷家が親類であることを教えていただいた。伏谷如水はいうまでもなく、明治元年次郎長を駿府周辺の警固役に抜擢した東征軍判事、浜松藩家老である。新政府が発足してから如水は藩に復帰し、浜松藩が市原に移封されるのと一緒に移住した。伏谷家には、如水が豪腹の次郎長をこよなくひいきにした話が伝わっているという。  次郎長が三島に行ったのは、太田健太郎の家族が三島に避難するのを護衛して送るためではないか、と私は推理するのである。テロの範囲が広がれば、駿府藩取りつぶしの絶好の口実になりかねない。事実、明治2年正月、関口艮輔(隆吉)、前島未助の名で新政府に差出した上申書があり、それには、赤心隊員の遭難について、藩として不行届だったことを詫び、犯人の探索と、領内取締を一段と厳しくする旨を述べている。次郎長は藩の方針に沿って、市中取締のための行動をとった。次郎長はけっして二足のわらじをはいたのではない。なのに官軍の先棒かつぐとかん違いした浪士によって二代目おてふは斬られた。三保神社事件は容疑者として社人の宮城島肥後が検挙されたが、事件の結末と真犯人についての記録はない。被害者の太田健太郎だけは、国に殉じた戦死者扱いで、靖国神社にまつられている。
 次郎長と幕臣たちとの関わりについては、鉄舟の義弟石坂周三や、明徳館を開いた新井幹などもあるが、他日に譲ることにしよう。




 愚庵となった天田五郎

   明治17年、天田五郎は清水港を去り、天田姓に復して有栖川家に奉職、のち大阪に行き新聞社勤めのかたわら、京都林丘寺の適水禅師のもとで参禅、明治20年には剃髪得度した。適水禅師からは「外にて父母を求めることができなければ、汝の内にて見よ」と教えられる。

 明治26年6月12日、次郎長は74歳の生涯を閉じるが、愚庵和尚となった天田五郎は、北海道の旅先で訃報を聞き、帰途清水へ立ち寄って、次郎長の供養をした。当時、次郎長菩提寺の梅蔭寺住職は、紀州(和歌山県)田辺在の円鏡寺出身の万休和尚である。万休和尚は次郎長とは8年ほど親交があったが、たいへん固い人だったようで、次郎長は「紀州から来た御用木だ」と評した。
 明治26年、この年の秋、愚庵は西国33箇所巡礼の旅に出る。愚庵研究第一人者として知られる中柴光泰氏は、この巡礼の旅は、一時の親とした次郎長の供養の旅だと指摘する。この巡礼を記録した「巡礼日記」には、万休和尚出身の円鏡寺に立寄ったことも記されている。

 次郎長と愚庵天田五郎との関わりは、これまでざっと述べたことでもわかるように、大変深い。清水は愚庵にとって第二の故郷のようなもので、逸話も残っている。ところが、清水には、愚庵についてモニュメントとなるようなものは、これまで皆無であった。次郎長没後百年を記念して、後世に残すものとしては、愚庵に因んだものが、最も相応しいと考えるのは私だけではなかった。
 愚庵には、清水に因んで詠んだ和歌や漢詩がある。戊寅口占(戊寅は明治11年)に「清水港の宿りにて」と題して妹をよんだ相聞歌風の歌もある。そこでモニュメントとしては歌碑にしようということで、次郎長翁を知る会の皆さんの意見が一致した。この計画は、平成4年12月、「次郎長ツアー」で知る会の会員が、いわき市を訪れた時にも披露され、いわき市の、「愚庵研究会」の皆さんにも御賛同をいただいた。その上、歌の選出には、中柴光泰先生が当たられ、自ら筆をとっての揮毫も引き受けて下さるということで、計画に花を添えた。
 歌の選出は、先の戊寅口占の相聞歌風のものでなく、愚庵らしい雄渾なものを、ということで、次の歌が選ばれた。

 ふじがねにのぼりて四方の国みるも
  まづふるさとの空をたずねて

 これは、昭和26年発行の不二歌道会機関誌「不二」9月号(6巻8号・通巻55号)に所載のもので、次の長歌の反歌である。

   水無月廿日まり二日 不尽の高嶺にのぼりてよめる歌

  たまよみのかひの国
  うちよするするがの国と
  ふた国をかけてたふとき
  ふじがねにのぼりてみれば
  玉久しげはこねの山も
  あしがらのやまをもやまと
  みえわかぬそれをおもへば
  とりが啼あづまの空の
  うちひさす都はいづらと
  あまのはらふりさけみれば
  はろばろにさだかならねど
  すみだ河ほそぬのしくと
  おもへらく我ふるさとを
  草まくらたびねながらに
  みることのそのうれしさよ
  そのたのしさよ

 「ふじがねにのぼりて四方の国みるも  まづふるさとの空をたづねて」

 右の歌を選んだ中柴光泰先生によれば、この歌は愚庵が次郎長のもとで富士裾野の開墾に当たっていた時期に詠まれたものであるという。
 この歌を石碑に刻むため、先生は自ら筆をとり平成5年6月12日の次郎長忌に列席した方がたに、揮毫を縮少した写しが配布された。なお石碑の裏面に刻む解題の文章も、先生が執筆された。左がそれである。
  「碑面の短歌は不二歌道会発行の第6巻8号の『不二』にのっていた『水無月廿日まり二日不尽の高嶺に  のぼりてよめるうた』と題する長歌の反歌で、富士山を中心に次郎長と愚庵との、清水市といわき市とのつ  ながりを見事に内包した名吟である。
   平成五年六月    中柴光泰撰」
 清水に初めて建てられることになった右の歌碑は、次郎長百年祭行事の一つとして、平成5年11月2日、梅蔭寺境内において除幕式を行なうことになっている。愚庵の巡礼の旅からも、ちょうど満百年に当たるのである。       (田口英爾)



【編集室から】

 ●会報第3号をお届けします。次郎長没後満百年の今年を締めくくる号となります。早いもので昨年5月6   日、知る会が旗上げしてから、もう1年半が経過しました。発足直後に百回忌と、「講談と映画の会」が   あり、暮れには次郎長ツアーで28人衆の会員が、いわき市を訪問。愚庵研究会はじめ市民の方がたと懇   親を深めて参りました。
 ●さて、今年は本番。次郎長命日の6月は、皇室の御慶事と重なったので形だけとし、秋がいよいよ次郎長   百年祭のクライマックスとなります。11月1日からの三日間、「次郎長を語る」シンポジウムや、「愚   庵歌碑の除幕」、「ちんどん道中」など盛りだくさんの行事が行われます。11月1日から1月7日まで   梅蔭寺の遺物館では、これまで見られなかった遺品や手紙類などの特別展示も行なわれます。
 ●百年祭には、いわき市の皆さんがバス仕立てで来ることになっています。ようこそ。シンポジウム参加、   懇親会、除幕式と強行日程ですが、「よき旅」であることを祈ります。
 ●百年祭スタートの11月1日は、旧暦の9月18日。奇しくも、咸臨丸戦争の日で、殉難者たちの命日と    なります。内戦の悲劇は、現在でも世界中いたるところに起きており、130年前の清水港で起きたこの   出来事を、忘れるなと次郎長は私たちに教えているのでしょう。



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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