次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第2号



いわき市へ―次郎長ツア−第一号

天田五郎と山本長五郎を結ぶ

 福島県いわき市。ここは清水とは切っても切れない縁がある。それは、愚庵天田五郎の生まれた土地だからである。天田五郎はいうまでもない。あの東海遊侠伝を書き、講談や浪花節の次郎長もののル−ツを作った人である。


 史蹟探訪次郎長ツア−の第一号は、いわき行と決まり、平成4年12月4日、5日の一泊二日、バス旅行となった。総勢、ドライバ−、ガイド含めて32名。うち3名は東京から参加である。
 日程の概略は、12月4日午前8時半、清水出発。午后3時いわき市着。市役所に市長を表敬訪問し、記念品交換。石炭館見学。湯本温泉すみれ荘ホテル泊。夜、同ホテルにて地元愚庵会と懇親パ−ティ。5日、市内松ヶ岡公園にある愚庵のいほり天田家菩提所、●光寺、小名浜港等の訪問。昼いわき市発、夜清水着。
 いわき市の地元には、愚庵研究会がある。この会のメンバ−の方がたが、清水からの一行を大歓迎して下さった。なかでも、世話役の中心となった柳沢一郎愚庵会副会長は、終始一行の案内役となり、石炭化石館では、地質学の専門学者だけあって閉館ぎりぎりまで熱弁をふるい、一行に大きな感銘を与えた。
 懇親パーティでは、特記すべきことが二つある。一つは、東京在住の天田春彦さんが参加し、服部事務局長と握手を交わし、次郎長、愚庵双方のご子孫が対面したことである。
 もう一つは、愚庵研究の大家中柴光泰先生が列席したことである。先生は90歳を越える高齢にもかかわらず、宴会の大広間のすみずみまで通るお元気な声で、次郎長と愚庵の関わりを話された。愚庵の「巡礼日記」は明治26年に書かれたものだが、それは正に、次郎長の亡くなった年であり、親とした次郎長の供養のために巡礼の旅に出たのだと、中柴先生は指摘した。
 次郎長ツア−は、今年秋には、いわきからの一行を待ち受けることになる。おそらく、初めて清水にできる愚庵の歌碑の除幕式が、開かれることになろう

  写真は晩年 愚庵和尚となった天田五郎




●次郎長フェア11月開催へ

     明治26年(1893年)6月12日清水港波止場の旅館「末広」で、山本長五郎は74歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。平成5年(1993年)はちょうど満百年に当たる。これに因んで、本年11月には「次郎長シンポジウム』や次郎長英雄談の始祖天田五郎の歌碑の除幕式など「次郎長フェア」が催されることになる。また、命日の6月12日は、知る会の年次総会が開かれ、事業計画などの審議が進められいよいよ次郎長百年のイベントの幕が切って落とされる。

 この1年の歩み

 昨年5月6日に旗上げした「次郎長翁を知る会」は、この1年「次郎長の人間像を探る」「足跡を後世に語り継ぐ」という趣意に沿って積極的な活動を展開してきた。
 会の発足は、静岡新聞はじめ、朝毎読の各紙やNHK、静岡テレビなどが、大々的に報じたため観光協会内の事務局には、さまざまな反響が寄せられた。
 各方面から、いままで埋れていた資料や言い伝えの所在を名乗り出る声が相次いで寄せられた。  静岡市在住の徳田政信氏は中京大学名誉教授だが、次郎長に関する文書(もんじょ)類を所蔵しており、門外不出のものだがというご連絡が同氏からあった。  平成4年5月21日、事務局長服部に田口が同行し、静岡市の徳田氏宅を訪ねた。同氏のお話では、同氏の曾祖父徳田寛豊(水戸藩郷士)が明治初期に神道一派天照教を開き、その本部を富士山麓においたが、次郎長との関係を示す資料がいろいろあり、次郎長が開墾地を富士裾野に選定したのも天照教の地理的至近性と何らかの関わりがあろうという。天照教の本部は、徳田氏の令弟が現に継承してその地に居られるともいわれた。  7月4日、天照教本部を現地探訪するため、観光協会一柳専務、内藤事務局長、知る会事務局長服部、および田口が富士市観光課の案内で富士山麓を車で登った。この探訪によって、次郎長の富士開墾と天照教本部の立地と少なからぬ関係が明らかになったことは、会報一号記事に詳しい。人里離れた天照教本部の境内に、次郎長や高島嘉右エ門(横浜の豪商)の手植の桜が残されていることも、われわれの驚きであった。
 6月12日は次郎長の命日である。平成4年のこの日は、菩提寺の梅蔭寺で、百回忌の法要が盛大にとり行われた。知る会の会員も多数参列し玉川楼での斎会にも加わった。さらに翌13日、梅蔭寺主催、知る会協賛による「次郎長講談と映画の会」が、市民文化会館大ホ−ルで催された。講談は神田翠月「森の石松」と宝井馬琴「追分三五郎」。映画は昭和29年東宝製作の「次郎長三国志・海道一の暴れん坊」。アトラクションとして稲森昌弘の「次郎長太鼓」。当日は午后1時開演だが午前8時頃から行列ができ始め、開演の頃には広い場内が一杯になり、馬琴師匠らの熱演にききほれた。
 平成4年7月25日、咸臨丸歓迎パ−ティ。長崎オランダ村で復元した咸臨丸が清水港に寄港乗組員一同歓迎パ−ティが市内平安閣で催され、市長、艦長のスピ−チ交換、次郎長翁を知る会と乗組員との懇親の一時が過ごされた。明治元年の咸臨丸事件と次郎長の関わりは、次郎長の後半生を決定づける大きな出来事だったことは、改めていうまでもない。


 一方、次郎長の史実についての調査研究活動は服部事務局長や会員の朝比奈、坂本、田口らを中心に精力的に進められた。戸田書店発行の「季刊清水」の編集長坂本ひさ江は、次号を次郎長特集とすることに決定したが、新しい史実を掘り出そうというその編集方針が、知る会の調査研究活動を大いに刺激した。
 調査研究活動のうち主なものを以下に列記する。
 平成4年9月9日、磐田市見付天神訪問(服部)ここには植木重敏医師宛の次郎長直筆の書状がある。植木医師は明治草分期の県医師会会長で、出身は土佐藩、次郎長との関わりが深い。
 平成4年11月19日、袖師町勝瀬光安氏を訪問(服部、坂本、田口)。文化財専門委員をつとめる勝瀬氏はは80歳を越える高齢だが、次郎長に関する独自の資料をお持ちで、門外不出といわれるそのノ−トには、次郎長に関する貴重な史実がいっぱいである。次郎長の戸籍の記載、初代お蝶の実名、宏田和尚(次郎長と同時期の梅蔭寺住職)の出身等が明らかになった。
 平成5年1月8日、名古屋市平和公園墓地内の初代お蝶の墓を探訪、墓参(服部、内藤、朝比奈、坂本)。
 平成5年1月9日、由比町松永宝蔵氏訪問(服部、坂本、田口)。別記参照。

  写真は平和公園墓地の初代お蝶の墓





 残された鉄舟のピストル ― 望嶽亭の幕末秘話 ―


      平成5年1月9日「次郎長翁を知る会」のメンバ−一行(服部、坂本、田口)が由比町西倉沢の松永宝蔵氏を訪ねた。ここには明治維新の年、官軍陣営に密使として乗り込んだ山岡鉄舟のピストルが残されている。当主松永宝蔵氏の描いた絵巻物を見せていただいたが、こんなことが記されていた。
 慶応4年春3月、有栖川大総督は西郷隆盛を矢頭に錦の御旗を掲げて、東海道を江戸に向かって進み、駿府に陣営を構えていた。江戸城総攻撃も間近い緊迫した時期である。
 こんな時、江戸では主戦派、恭順派に分かれていたが、勝海舟の特命を受けた山岡鉄舟は、将軍慶喜の救命を前提とする江戸城明け渡しの談判を西郷とするため、駿府に向かった。すでに官軍の先鋒は箱根を越え、宿場〜の警備は厳重である。薩摩藩士益満休之助を帯同したのは、官軍陣営を突破する手段だったが、それでも決死の覚悟なしにはできない任務であった。

  写真は山岡鉄舟が望嶽亭に置いていったピストル


 途中難なく、三島、沼津、吉原を過ぎ富士川を渡って蒲原、由比に差しかかった時は、日が暮れていた。薩薩垂峠(さったとうげ)を登ったとき、突然暗闇の中で誰何の声がかかった。一人では突破できないと見て山岡は急ぎ引き返したが、官軍は怪しいと見て射撃してきた。
 薩垂峠の登り口に松永家が代々営む「望嶽亭、ふじみや」がある。ここは蜀山人太田南畝も道中記に書留めた東海道の名所である。身の危険を感じた山岡鉄舟はこの「望嶽亭」に逃げ込み、助けを求めた。
 当主の「松永七郎平」(松永家20代目)は火急の措置を取って奥の座敷にい入れ、妻かくに命じて山岡を漁師の姿に変装させ、着用していたものを捕方の目にふれないように、手早く隠した。この持ち物の中に現在松永家に残っている山岡鉄舟のピストル(フランス製の十連発小銃)があって大切に保存されている。
 この時、七郎平は清水次郎長宛に手紙を書き、下僕の「栄兵衛」に命じて蔵座敷から秘密の通路を通って海に出て次郎長の許へ案内した。この抜け口は、今も当時のまま保存されている。
次郎長は、これから山岡鉄舟を駿府伝馬町「松崎屋源兵衛」宅に案内し、有名な江戸城無血開城を成功させる山岡鉄舟の談判となり、日本の夜明けを迎える大きな契機となったのである。   (服部)

  写真は望嶽亭亭主 松永氏




● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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