次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第12号
                平成12年6月12日発行



船宿「末廣」いよいよ来春復元

次郎長が晩年、清水波止場で営んだ船宿「末廣」が、平成13年4月を目途に復元される
ことになった。木造二階建瓦葺、場所は港橋畔のエスパルス通り入口の角地。内部は次郎
長博物の機能を備えるようだ。

 次郎長が晩年営んだ船宿「末廣」がほぼ原型の姿で復元されることになった。次郎長の歴史に新しい1頁が加えられるばかりでなく、観光清水市の活性化にも一役買うことになるであろう、この計画は、当会にとっても近来にない朗報といえるようだ。
 計画推進の主役は清水市経済部観光課。今年の2月、市議会で復元に要する予算1億1千600万円が可決されるのとほぼ併行して、清水地区連合自治会鈴木昭治会長、文化財保護審議会杉山満会長、当会竹内宏会長らによって構成される「末広建設検討委員会」が発足し、3月、4月、5月とすでに6回にわたって委員会が開催され、計画の細部が審議されている。


 これまで具体的に決定している計画の概要を紹介すると、建設用地は、清水市港町一丁目2ー14。巴川の河口から数えて2番目の港橋の畔、甲州廻米置場跡の石碑の向い側、エスパルス通り入口の角地に建っている駿河銀行支店建物の場所である。およそ100坪の敷地に、木造二階建て70坪の建物が、来年(平成13年)4月までに建てられる予定だ。
 この次郎長の船宿「末広」復元計画の発端となったのは、昨年(平成11年)8月に当会会長竹内宏名で宮城島弘正清水市長に宛て提出した一通の請願書である。
 請願書は、ちょうどその当時、取りこわされようとしていた鶴舞町の藤下邸(末廣を引き継いだ港屋を移築した建物)の部材を保存するようにとの趣旨であった。  この請願は直ちに採択され、藤下邸の部材保存の予算が市議会で通ったばかりでなく、市長の熱意から、にわかに「末廣」を復元しようとの計画が提案され、平成12年の年が明けた年頭の議会にはかられることになったのである。しかも平成12年はいわゆる千年紀(ミレニアム)=西暦2000年であるばかりでなく、実に次郎長生誕180年という記念すべき年に当たるのである。
 ちなみに藤下邸が「末廣」の建物を移築したものであることを、関係者に熱心に説いて回り、部材保存、さらには「末廣」復元のきっかけをつくったのは、他ならぬ当会顧問の府川松太郎氏である。
 昨年提出した請願書には、「末廣」の所在地、それを特定する裏付資料、さらに末廣を引き継いだ港屋、移築された藤下邸に至る経緯が述べられているので、ここにその要点を紹介する。


@末廣の所在地

次郎長没後、末廣は未亡人の三代目おちょうの手で経営されていたが、大正5年に亡くなり、養女山本けんが継承した。大正8年、山本けんは土地建物を望月正治郎に売却する。その譲渡証書が梅蔭寺次郎長資料室所蔵の史料の中から発見された。大正8年1月31日付の「買受証」には、売却された末廣の所在地が「安倍郡清水町清水受新田四百二十二番地の三の内建物」と明記されている。この「清水受新田四二二番地の三」こそ、かつて清水波止場と呼ばれ、税関、水上警察、製氷工場、魚市場や青木運送(アオキ・トランス)などが並んでいた地域に他ならない。
 なお最近の調査で、この「四二二ー三」の土地所有者は、徳川慶喜公の家来白井音次郎であることが判明した。次郎長は白井音次郎の土地を借地して末廣を営んでいたのである。さらに末廣に隣接する土地は、大正から昭和戦前にかけては、魚市場であったが、明治期には芝野栄七が白井音次郎からの借地で養魚場を営んでいた。芝野栄七の家系も元来徳川家臣であり、白井音次郎、芝野栄七、清水次郎長という三者の織りなす人間模様は、謎めいたことが多く、調べれば調べるほど奥行きの深いことを感じさせる。

A末廣から港屋へ

大正12年6月4日の「中外商業新報(日本経済新聞の前身)」には、「売られた次郎長の家」という説明がつけられた写真が掲載されている。その二階建家屋は、「大正時代の清水波止場」と題するフェルケール博物館所蔵の写真に写されている二階建家屋と一致する。その羽目には、大きく「港屋」と屋号が書かれている。
 「港屋」は片山音吉、よし夫妻が経営する船宿である。音吉の妻よしの旧姓は望月。大正8年に山本けんから家屋を買受けた望月正治郎の妹である。音吉・よし夫妻は、兄が買った二階建家屋を「港屋」の看板に塗り替え、末廣と同じ船宿として経営したのである。すなわち、「大正時代の清水波止場」と題する写真に写されている「港屋」の建物こそ、次郎長が晩年に営み、終焉の地となった船宿「末廣」に他ならない。
 音吉の没後は長男勇吉が「港屋」を引継いだ。片山勇吉は後に港トラック株式会社の経営も参画している。
 昭和13年、「港屋」の二階建家屋は、現在の「清水市鶴舞町四ー十三番地」に移築された。同所に居住する藤下賢一郎・美恵夫妻の邸宅として移築されたのである。美恵夫人は片山勇吉の夫人はなの実妹である。次郎長が住んでいた「末廣」の柱や梁は、そのまま鶴舞町の藤下家の二階建家屋に移築されて使われ、今日まで奇跡的に残ったのである。もし移されていなければ、「港屋」の建物は、昭和20年の清水港周辺の度重なる爆撃によって、その周辺の建物と同様、完全に消失する運命を免かれなかったであろう。  鶴舞町の藤下邸は、戦災を蒙ることなく今日まで残され、平成11年11月、取りこわされる寸前に建築部材の保存が市当局によって行われることとなり、さらに復元に当たって、その部材が使用されることとなったのである。
 こうして、次郎長がその手でさわった柱や、その足で踏んだ階段が、明治・大正・昭和戦前さらに現在へと、様ざまな運命を経ながら継承され、復元という新しい形で後世に残されることになったのは、生誕180年という節目の年にふさわしい快挙といわねばならない。

 次郎長の船宿「末廣」の復元計画は、現在進行中である。先にも述べたように、港橋畔、清水市港町1ー2ー14の地に、平成13年4月頃には、二階建70坪の建物が完成するであろう。



統計の始祖 杉亨二(こうじ)と次郎長

 明治新政府高官としてわが国最初の統計書をつくった杉亨二が、次郎長に会い、その人物にすっかりほれこんだことを自叙伝に記している。
 杉亨二といえば幕臣の中でも俊秀として知られる人。ペリーの黒船来航時の老中筆頭阿部正弘に西欧の事情を説いたり、開成所教授をつとめたばかりでなく、幕府崩壊後は沼津兵学校教官をつとめた後、明治新政府の太政官正院大主記として、辛未政表、壬申政表などわが国最初の統計書を編纂した。
 5月某日。総務庁からという電話がかかった。統計協会発行の出版物にのせたいから次郎長の顔写真を送ってほしいということである。もちろん、二つ返事が引受けた次第であるが、仔細を聞いてみると、大正6年発行の私家版「杉亨二自叙伝」に次郎長と会った杉亨二が、その人物に感銘を受けたことが書かれており、その事実を総務庁発行の出版物で紹介したいとのことである。
 総務庁といえば、内閣の枢要な機関。そのお役所が次郎長を紹介しようというのだから、いわば政府公認である。次郎長は単なる博徒などと片付けようとする手合いに、是非この事実を知ってもらいたいものだ。


 杉亨二が次郎長に会ったのは明治初年。おそらく元年か2年、江戸からの移住幕臣が続々と清水港に上陸し、次郎長がその世話をしていた頃のことである。
 「杉亨二自叙伝」にはこう書かれている。

 「江戸の移住人が駿河に着した時も長五郎は親切に世話をして、それぞれ産業に有りつかせることに心配していた。余はその事を聞いて奇特に感じていた所に、紹介する者があって余の許へ長五郎が面会を求めて来た。逢ってみると実に純朴なもので、時候の挨拶などはない、直ちに移住人の産業のことに話が進んで、余は第一に開墾のことを勧めた」

 こうして次郎長と杉亨二は、開墾に適した場所をということで、二人で有度山を検分に行った。さらに、三保の松原あたりで塩がとれれば絶好の産業になるのではないかと、製塩の試験をしたことがあり、その帰途に次郎長の家で休憩した。その家は実に質素であったが、部屋の中に槍や鉄砲が飾ってある。その由来を尋ねると、家康公が天下を治めた御道具で、久能山の宝物が今度の変革で売り物に出されていたのをもったいないから買取り、今に三位様(家達公)が御入部になれば献上するつもりがあるという。

 「長五郎は学問の知識はないが、その精神の卓越していることは感心のほかはない」

 と杉亨二は自叙伝に書いている。
 「自叙伝」のその件りを以下に紹介しよう。

○清水の次郎長に接す

 余が清水に在る時、清水港に長五郎と言う侠客が居た。此長五郎は博徒の親分で子分が何百人かある、至って義侠心に富んだ男で子分を戒めて不正不義の行は決してさせない。其評判は近国に鳴り響いて居た。
維新の初め有栖川宮が征討総督で関東討入りと言う時、甲斐の黒駒が官軍の先陣となって駿河地方を通ると言うことが聞へた。黒駒は矢張博徒の親分で、子分も随分あったが、何分兇悪の徒であったから、長五郎とは讐敵の間柄なのだ、それが、官軍の先導に立って来ると聞いたから、長五郎大いに憤り人もあらうに盗賊、人殺の兇状ある黒駒が、官軍の先導とは何事ぞ、長五郎が目の黒いうちは、彼等一歩も通す事は相成らぬ、との勢で子分をつれて出向った。すると、さあ親方が出たと言うので、数百の子分が跡から附従った。此の事を聞いて黒駒も恐怖してこそこそと引下がった、と言うことである。江戸の移住人が駿河に着した時も長五郎は深切に世話をして、それぞれ産業に有りつかせる事に心配して居た。余は其の事を聞いて奇特に感じて居た所に紹介する者があって余の許へ長五郎が面会を求めて来た。逢って見ると実に純朴なもので、時候の挨拶などは無い。直ちに移住人の産業の事に話が進んで、余は第一に開墾の事を勧めた。それには久能山から一里程隔った所に宇土山(有度山・編集部注)と言う山がある。是れは草薙神社と言って日本武の尊を祭ってある所で、地味も好く、開墾には適当の場所だと言うことであったから、長五郎と共に右の場所を見分に行った。それから又製塩の事に就いて試験したことがある。それは、駿河には以前薩田峠の下に塩浜があって塩が取れた。三保の松原辺でも取れるに相違ない。元来駿河から甲州へ運送する塩が年々富士川を上るものが十八万俵、沼津より上るものが八万俵、それが皆中国、西国から来るのである。それに駿河で塩が出来る様になれば絶好の産業であると説いた。長五郎も大いに喜んで余を迎へて三保の松原へ同行して羽衣神社の神主に落ちつき船に四本柱を立て竹の枝を集めて粗朶にして潮水を酌み掛け掛け其成分を試めした。結果は好かった。其帰途に、長五郎のもてなしで漁船二艘を仕立て、熟練の網打両人に命じて双方で網を討たせたが、実に名人だけあって網の広がり方も手際のもので魚も沢山かかり互いに優劣が無かった。清水港に帰って是非宅に立寄ってくれと言ふので暫く其宅に休憩した。誠に質素なもので裏店の如き体である。尤も他に二階建の新らしい家はあったが、是れは姉の為に造ったと言ふので自分の住居は膝を容るるに過ぎぬ有様である。併し、其一室には槍・鉄砲が各々数本飾ってある。槍は文珠四郎の銘があり、鉄砲は何々の作であると言ふことであった。是は如何なる由緒ありや、と尋ねたれば、これは権現様が天下を治められた御道具で、実は久能山の品である。此度の変革に依り右の御道具を売り物にした。余りに勿体無いから私が買取ったので、今に三位様(家達公)が御入部になれば、献上する積もりであると言うことである。長五郎は学問の智識は無いが、其精神の卓越して居ることは感心の他は無い。前の羽衣神社神主の宅に憩ふた其席上で、余が談話の序に、丁度月が出たから彼に向ひ、今、月が出たが、あの月が円くなったり、虧(か)けたりする訳を知れりや、と問ひしに、彼は一向に存じませぬと言ふ。港に居て潮の満干は日々見ることであるが、其訳を知れりやと問ふ。彼まだ一向存じませぬと言う。そこで月の盈虧(みちかけ)、潮の干満等の理を説き聞かせたるに始めて聞きたることとて非常に驚き且喜んだ。
 其後余が駿河国人別調の事で、清水港に巡回した時、早速長五郎が来て江戸から聟に来て、まだ送籍が無くて人別に這入らぬ者が二人あり、人別が無いと帳外者として疎遠にせらるゝ習慣で当人が迷惑するから、此際人別に這入ります様願上ると言ふことである。其人の性質又近所のおり合など問質し、直に人別に加へることにしたれば大いに喜んで帰った。
 其平生酒は固より煙草も用ひぬ様子を見て、何か娯楽ありや、と問ふたれば、彼れの言うには、私も若い時は、随分道楽もし、酒も飲みました。然るに先年清水港へ江戸から剣術の先生が来て、稽古所を設けて居て、私共も指南を受けました。ある時、其先生が隣村の御厨郷と言ふ所の豪家へ招かれて行くので、私も供をして一所に参りました。先方で酒宴があって、先生も大いに酔潰れて帰途に、とうとう駕籠から落ちてしまった。そこで剣術の先生ともあるものが酔って駕籠から落つるのも知らぬ様では仕方が無い。畢竟(ひっきょう)酒の罪であると言ふことを悟って、それから私はふッつり酒をやめました。只今では別に道楽は無く、唯々命に掛けて人の難儀を救ふのが、一つの楽みで御座います。人の難儀を救ふのは命掛けで無ければ出来ぬものであると言った。
                                                  (「杉亨二自叙伝」)




【編集室から】

 市原市との交流重ねる   四月三日、二十八人衆が勢揃いして市原訪問


 そもそもから数えると、竹内宏会長が平成5年に文芸春秋誌に「次郎長と私」を書き、伏谷如水子孫の市原市高石鶴子さんが連絡を寄せられてから、7年の歳月になる。平成12年4月3日、早朝清水市を出発したバスが、一行28人を乗せて千葉県市原市の鶴舞に到着。念願の次郎長ツアー、市原訪問が実現した。
 この運びとなるまで、昨年(平成11年)の秋に当会運営委員と竹内会長の5名が、下検分のため市原市を訪ね、新しく結成された「鶴舞藩を知る会」の内藤昇会長らと交流、さらに今年(平成12年)2月22日に内藤会長以下市原市のご一行が清水市に来訪、次郎長の墓参など当会と交流を深めた。この間、終始こまめに交流の推進役をつとめたのは市原市の高石さんと塚原茂さんである。
 こうしたエールの交換があって、ようやく訪問ツアーが実現、参加者も28人と、ちょうど次郎長子分28人衆と語呂合わせのようになった。
 4月3日、今年の春はおそく、桜はまだまばらである。伏谷如水の墓前では、高石鶴子さんと、当会の服部千恵子さんが、伏谷如水、次郎長それぞれの子孫ということで劇的な握手を交わし、全員が玉串をささげた。(左写真はそのときの模様)
 墓参の後、桜の名所鶴舞公園で桜の苗木の記念植樹祭を行い、さら藩校跡の鶴舞公民館に移って、小出善三郎市原市長をはじめ、内藤昇鶴舞藩を知る会会長、高石さん、塚原さん(司会)や大勢の地元の方がたが参加して盛大な歓迎の懇親会が開かれた。翌日の地元紙千葉日報は、このイベントを4段抜記事で大きく報じた。



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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