次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第11号
                平成11年6月12日発行



船宿「末広」の所在地わかる

明治20年代、若き海軍士候補生広瀬武夫や小笠原長生らは、次郎長の武勇談を聞くため
船宿末広を訪ねた。清水港波止場にあったその末広の場所や、慶喜撮影の写真に写されている
ことがわかった。


 次郎長が晩年営んだ船宿「末広」の場所がどこにあって、どんな建物だったかについては、次郎長研究家ばかりでなく、およそ次郎長ファンといわれる大勢の人びとの関心の的であった。とかろが、場所についても、かつて波止場と呼ばれていた、三保行の渡船場や魚市場の附近にあったらしいという程度にしかわかっていなかった。その附近は今は埋立てられ陸地と化してしまっており、日の出地区再開発という名称のもとに、人工浜辺や、遊歩道や新しいビルなどがつくられて、この10年程の間にすっかり姿が変わってしまった。
 一昔前まで、アオキトランスの本社ビルの前に小さな花崗岩(かこうがん)の石碑が立っていて、それには「次郎長宅跡」と彫られており、通りがかりの人たちに「ああここに末広があったのだな」と納得を行かせていた。ところが、アオキトランス本社が新しいビルに移転するため、古いビルが取りこわしとなり、石碑も同じ運命になろうとしていた。編集子がたまたま通りかかった所、石碑はちょうど交通事故の負傷者のように、道路わきに横たわって、何処へか連れ去られそうになっていた。間一髪という形で、石碑は梅蔭寺まで運ばれ、次郎長銅像前の境内の一角に保存されることになった。もっともその石碑は倉庫出入のトラックなどに何度もぶつけられたらしく二ケ所ばかり折られた箇所をセメントで貼り合わせた処置がしてあり、満身創痍といった姿になっている。とてもこれでは、「次郎長宅跡」の石碑として再び御用をつとめることはできない姿だ。


 ところで数年前から市の日の出開発室から話が持ち込まれ、この地区に史跡記念碑をつくるということで、にわかに「末広」にスポットが当てられ、新しい「次郎長宅跡」の石碑がつくられることになった。
 新しい石碑をつくるについては、是非にも末広の場所を特定しなければならない。建碑の話が具体化したのは昨年(平成10年)秋口くらいのことであるが、編集子はまず「場所の特定」にとりかかろうとした。といっても手がかりらしいものは、あまりない。
編集子はかつて次郎長研究家の亀山庄吉氏に教えていただいたことがある。次郎長通りで洋品店を営んでいた氏は、明治38年生まれ、すでに故人となられたが、生家は次郎長が養子に行った米穀店甲田屋の隣で、次郎長については生字引のように詳しい。
 明治生まれの亀山氏から編集子は、末広が二階建であったことや、末広という大きな字が羽目に書いてあって出入りする船からよく見えたことなどを教えていただいた。また、(注1)今は埋立てられてしまっているが、かつての魚市場や渡船場のあった船着場の石堤は、明治の築港時代からそのままの石堤であ
ることなどもご教示いただいた。
 問題の末広の場所については、大正初期の波止場の写真を見ながら、だいたいこの辺だろうという見当も亀山氏がつけた。
 昨年秋、手がかりをつかもうと、手もとにある色々な古い資料に当たってみた。梅蔭寺次郎長資料室を編集子は所管しているから、次郎長に関する原史料が手もとにいくつかある。先年、おちょうさんの子孫の入谷家から、明治期の史料を寄贈していただいており、その中に次郎長宛の手紙がいくつかある。その宛名で所番地がわかれば、末広の特定ができるであろう。ところが幾つかある手紙の宛名は、すべて「清水港波止場」で番地などは入っていない。これでは特定の手がかりにならない。
 そうこうしている時、手にした二つ折の和紙の書類を広げたところ、墨の跡もまだ新しいような文字が目に飛び込んできた。
 「買受之証」「大正八年一月三十一日」と日付の入ったその書類は「末広」の土地建物の譲渡証書であった。
 「買受之証」と記載された物件の所在地は、
 「安倍郡清水町清水受新田四百二拾二番地の三の内」となっている。
 当時の地図を広げてみると、清水受新田四百二十二番地の三(現在の港町)は、かつての清水波止場の魚市場から青木運送(アオキトランス)にかけての土地である。かなり広い区画の中の一画に、末広はあったのだ。
 これで大体の場所の特定はできる。  もう一つ私の行き当たった物証は、次郎長の持家が売りに出されたという古い新聞記事である。  清水港はあの茶っきり節でうたわれるように、「お茶」のみなとである。「お茶」と並んでもう一つの重要品目は「ミカン」であった。その「ミカン」輸出のパイオニアだったのが「スイチ」の屋号で知られる望月兄弟商会で、先年、望月一平さんの手で「スイチ」の社史「オレンジキング」が出版された。編集子は「清水港開港100年史」の編纂を静岡県から委嘱され、平成10年から取りかかっていたのだが、「ミカン」輸出について書かれた望月兄弟商会の社史「オレンジキング」を拾い読みしていたところ、一つの記事に目をひかれた。


 それは大正12年6月4日の「中外商業新報」の記事を抜すいしたもので記事中写真の見出しに「売られた次郎長の家」とうたわれ、不鮮明だが、一枚の写真が添えられている。
 木造二階建のその建物の写真を見て、「あ、これだな」と私は合点が行った。それは大正初期の清水波止場を写した写真、税関や魚市場と並んでいる建物の中にある二階建の家の一つに合致するものであった。
 しかも魚市場に隣り合わせたその二階建の所番地は、「清水受新田四二二ー三」に合致する。私は念のために、明治20年代に撮ったとされる徳川慶喜の「清水港」の写真をとり出してみた。徳川慶喜と次郎長については、私はこれまで何度も両雄が出会った可能性について雑誌などに書いた。慶喜が静岡在住中の30年間、実に頻繁に清水港を訪れたことは「家扶日記」が裏付けており、その身辺警固を次郎長が新門辰五郎から託されていたことや、榊原喜佐子著「徳川慶喜家の子ども部屋」に慶喜の子慶久の幼い頃、次郎長が「よいお子だ、よいお子だ」といって頭をなでたことが記されている。いろいろな情況証拠から慶喜と次郎長の出会いの可能性は高いし、慶喜撮影の写真の中に、次郎長の家があったとしても、けっして不思議ではない。
 不思議ではないどころか、慶喜撮影「清水港」の写真の中に次郎長の営んだ波止場「末広」が写っている可能性は高い、と編集子は考えていた。
 果して、慶喜の写真の中に、二階建のその建物は写されていた。繰り返すことになるが、慶喜撮影の「清水港」は二点あり、いずれも築港初期の漁村のような光景であるが、その一点の方の画面中央左寄りに写されている二階建の家が、正しく中外商業新報の「売りに出された親分の家」の二階建と同一の建物だったのである。
   再び「買受之証」の記載事項にもどろう。
 売主の「山本けん」という名は三代目おちょうさんの養女である。次郎長には実子がなく、(桜井初四郎という実子がいたのだが、入籍していない)後継者として初め大政(山本政五郎)を養子に迎えたが明治14年に没。その後、愚庵天田五郎を養子としたが、離れて僧侶となったため、おちょうさんの近親にあたる「けん」女を養女に迎え後継者として入籍した。


 次郎長が明治26年、亡くなった後も、おちょうさんの手で末広の営業は続けられたが、大正5年におちょうさんが亡くなると、後は山本けんが継いだ。この人はなかなか美人で波止場のおけんちゃんと呼ばれ、大正6年、咸臨丸事件50周年の時には慰霊祭の寄附金集めなどに奔走していた(大正6年「月心和尚日記」)。
 一方、買主の名は望月正五郎とある。この人は先に記した「ミカン」輸出のパイオニア望月兄弟商会のいわば総師で、青木運送(アオキトランス)の経営者でもある。すでに青木運送は回漕業の大手として「清水受新田四二二ー三」の地に本社を置き、手広く事業を展開していたから、いわば隣接地を手に入れたということになろう。
 譲渡された末広は「湊屋(後に港屋)」という屋号に看板を塗りかえ、望月一族の手で船宿として営業が続けられた。
 大正12年、関東大震災の直後、清水港には大勢の避難民が船でやってくるが、その上陸の光景を写した写真に、港屋の屋号を大きく書いた二階建の建物が写っている。この港屋こそ、次郎長が晩年を送った末広の歴史を、今に伝える物証写真にほかならないのである。



(注1) この石堤を地元では「次郎長堤」と言い伝えている。そして現存する「次郎長堤」の場所と「末廣」の在った場所を現在のマップに重ねて表したレポートがここにある。(↓)

次郎長堤(1)
次郎長堤(2)
次郎長宅跡

素晴らしいレポートを提供してくれました『今日の清水』さんに感謝いたします。




【編集室から】

 ・会報11号をお届けします。例によって夜なべの追い込み仕事で、何とか総会に間に合わせました。編集
  子は目下県から委嘱された「清水港開港100年史」の編集が大詰に近づき、これが終れば何とか県案事
    項に取りかかることができそうです。
 ・県案事項といえば、伏谷如水ゆかりの市原市との交流は、できるだけ早く実現したいものです。ご子孫の
  市原市在住高石鶴子さんから、地元では市長さんはじめ大勢の方がたが清水からの来訪を待ち望んでいる
  とのこと。秋には次郎長ツアーを組む予定。
 ・開港100年と同時に、今年はあの広沢虎造師の生誕100年に当たります。そこで当会と清水港開港
  100周年の会共催で、「よみがえる虎造節」をメインに、次郎長と清水港の夜明け−咸臨丸事件−をし
  のぶ「浪曲と講談の会(仮称)」を催すことにしました。
   時は平成11年9月18日(明治元年、咸臨丸殉難者命日)、所は開港100年で新しく建てられる
  日の出埠頭の清水マリンターミナルです。ご期待下さい。
 ・5月13日に行われた竹内会長の横浜での経済講演会の席で、大勢の横浜市民の方が当会に入会して下さ
  いました。また竹内会長を通じ東京の井上和子さんから多額の御寄附を頂きました。改めて心から御礼申
  し上げます。                                     (田)




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