次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第9号
                
                平成9年6月12日発行



伏谷如水(浜松藩家老)に光を

――― 次郎長を大変身させた官軍先鋒 ―――

 次郎長が渡世人生活から社会事業家へ大転進を遂げたのは、伏谷如水(ふせやじょすい)との出会いか   らである。英雄は英雄を知る。短い期間だが、二人は明治元年の物情騒然たる駿府周辺を治めた。如水   ゆかりの地、千葉県市原市では小出市長が率先して、次郎長と如水の絆(きずな)を●って、清水市に   呼びかけた。
 

会報第7号ですでに報じたように、市原市小出市長は「広報いちはら」に「市原と清水」と題し、伏谷如水と次郎長の関係について、一文を寄せた。これに対し、わが清水市の宮城島市長も、両市交流のきっかけとしようと、如水・次郎長キャンペーンを進める当会の姿勢に全面的な賛意を表明した。
 今年の当会年次総会には、如水の子孫高石鶴子さんが、市原市からラ来清して出席される予定である。高石さんは、竹内宏会長が5年ほど前、文芸春秋誌に「次郎長と私」と題して伏谷如水のことを書いた時、子孫として名乗られた方である。  さらに、これをきっかけに、如水の真筆と思われる和歌の短冊が発見され、東京板橋の書画骨董商店主黒柱二郎氏から、竹内会長に寄贈された。
「御勅題・巳卯 元旦」と記されたその和歌は、明治12年に詠まれたもので、竹内会長から高石さんに贈呈されることになっている。
 浜松藩家老だった如水がどうして市原かというと、明治2年、浜松藩は鶴舞(千葉県市原市)に転封となったからである。会報7号で紹介した市原市小出市長の一文を、再掲しよう。


『市原と清水』              小出善三郎(市原市長)

 浜松藩の家老伏谷如水(ふせやじょすい)は、お国替えによって明治二年に市原市の鶴舞へ移住してき
 ました。そのため、鶴舞の街から少し離れた岩井戸の山腹に、彼の墓が建っています。鶴舞藩へ移る前の
 如水は、駿府町奉行に代わり、警察権を預る民政長官の役を命ぜられていました。
 清水市に「次郎長翁を知る会」という会があり、私は会報の中から、市原市と清水市とのかかわりを知
 ることが出来ました。清水市といえば、サッカーの清水エスパルスを連想しますが、私にはもう一つ、清
 水の次郎長が思い浮かぶのです。
 記述によりますと、次郎長は慶応四年四十九歳の時、切った張ったの渡世人から一転して、駿府の治安
 責任者に登用されています。当時浜松藩の藩主井上正直(後の鶴舞藩主)は老中として江戸に勤めてい
 ましたが、国元を預っていた如水は、いち早く朝廷の命に従い、藩兵を率いて駿府に駐留したのです。
 王政復古を唱える官軍にとって、清水は交通の拠点でした。幕府直轄だった駿府の市中警固役を、だれ
 に任せたらいいか、悩んだ末に次郎長を選んだのが浜松藩の如水でした。
 駿州赤心隊、駿州報国隊、伊豆伊吹隊など、血気盛んな勤王義勇隊は、神官たちによって結成されてい
 ました。彼らは、江戸幕府の政策に怨嗟の念を抱いていたといわれています。人を殺(あや)めれば仕
 返しをされるという物騒な世の中ですから、治安責任者次郎長の役目は大変だったと想像できます。
 次郎長の妻お蝶も、明治二年に何者かに殺害されています。
 晩年の次郎長は、社会事業に数々の業績を残していますが、もし如水と逢わなければ、次郎長は単なる
 博徒の親分で終っていたに違いありません。市原市と清水市との友好の絆が強まることを期待します。

                              (「広報いちはら」平成八年二月一日号)



如水と次郎長の出会い

    伏谷家には、如水と次郎長の親交を伝えるエピソードが代々語り継がれている。伏谷如水と次郎長は同じ文政生まれで如水が2歳年長だが、大変仲がよかったらしい。残念ながら如水の肖像写真や記録資料類は火災などのために何一つ残されていない。次郎長と如水の出会いを伝える唯一の典拠は「東海遊侠伝」だ。
 そこには、次郎長を大変身させた二人の出会いが活写されている。

   明治元年(1868)、鳥羽伏見の戦いの後、有栖川宮を大総督とする当征官軍が京都を出発、3月5日には駿府に着いた。家康のお膝元を自負する駿府の町には不穏な空気がみなぎっていた。江戸幕府直轄の駿府町奉行に代わって、総督府により3月22日、浜松藩家老の伏谷如水が、駿府町差配役に任命された。伏谷はさらに閏4月26日、駿遠三裁判所判事の兼任も命ぜられ、この地方の司法・行政を一手に統括することになった。
 ある日、清水港の長五郎のところに出頭命令が来た。駿府町差配役、判事伏谷如水からである。
 長五郎はすでに50の声を聞こうという年頃である。女房のお蝶を呼んで言った。
 「おれは罪の多い身だ。出頭すれば、二度とおまえっちの顔を見ることはできめえ。逃げようと思やあわけねえことだが、今度のことは、お上がおれを捕えようというのじゃない。特別のことでお召しになるようだから、逃げかくれするのは、やっぱ、よくねえ。行かなきゃ、なるめえ」
 長五郎が腹をくくって出頭すると、小役人が案内して、別室の伏谷判事に引き合わせた。判事が言った。
 「今戦乱で何かと事の多い時代だ。武士だ、官員だと詐称して悪事を働く者が後を断たない。一方、取締る側も、旧幕臣との間で意見の食い違いから上司に抗するなど、憂慮すべきことが多い。そこで、その方を登用して沿道の探索に当たってもらうことにした。これまでの処世態度を改めて、御奉公につとめてもらいたい」
 長五郎は固辞した。
「とんでもねえことです。私らのように身分いやしい無頼の徒が、お上の御用なんてつとまるわけはありません。どうか勘弁して、ほかの人を選んでおくんなさい」
 長五郎の返事を予期していたように、判事は部下を呼んだ。官員の制服を着た部下の男が、書類を手にさげて部屋に入って来た。下座の方に坐っていた長五郎が、顔をあげてその男を見て驚いた。よく見かけた顔である。その男は清水の港町を近頃よく歩いている足袋の行商人である。長五郎の家にも、一度買ってやったら度たび現われ、時には酒を出してやったこともある。
 長五郎が不思議そうにしているので、その男が名乗った。
 「自分を覚えているか。自分は小池にささげ持つ書類を朗読するように言いつけた。長五郎は頭を下げてこれを聞いた。長五郎の旧悪が細大もらさず記されている。長五郎は背中に冷水をかけられたかのようであった。
 「包みかくしなどできることではございません。お上の御明察には恐れ入った次第ですが、ただ間違っていることが二件ほどございます」
 長五郎は誤認の箇所を詳細に申し立てた。判事は、率直な長五郎をほめ、登用する旨を正式に申渡した。積年の長五郎の罪科はすべて免除され、平民としては破格の帯刀を許されるという栄誉もあわせて、命を受けて長五郎は退出した。天保13年、23歳の年に国を売って清水を出て以来、実に27年の間、常に危難の中に身を置き、一日たりとも世をはばからない日はなかった長五郎は、ここにおいて初めて、青天白日の身となったのである。





【編集室から】

 ・次郎長ツアー〈春の三河路〉は、名古屋市平和公園にある初代おちょうさんの墓参を織り込み、天気にも
    めぐまれ、4月19日盛況裡に催されました。厚く御礼申し上げます。3年がかりのおちょうさん墓の補
  修は、これでやっと一段落となり、次は懸案だった伏谷如水と市原市にスポットが当てられそうです。
 ・NHKの大河ドラマのあおりで、「徳川慶喜と明治の静岡推進協議会」の主催する講演会「慶喜公と次郎
     長」に竹内会長と秋岡栄子会員および編集子が駆り出され、5月13日、清水市民文化会館中ホールで
  おしゃべりをしました。秋岡さんの要を得た手綱さばきで、時間を感じさせないテンポで話が繰り出さ
  れ、竹内ぶしもふんだんに入って500人の聴衆が魅了されたようです。
 ・NHKといえば新番組「歴史出会い旅」で江守徹さんが来清し、わずか数分ですが編集子がお相手をつとめ
    慶喜と次郎長の出会いをお話しました。放映は6月下旬とのことです。実は編集子としては、慶喜が頻繁
  にやってきた清水港の投網漁と、案内役をつとめた原木弥吉のことを話したかったのですが、そっちの方
    は別カットとなり、何となくトンビに油揚げの気分です。それにしても、巴川のほとりには、歴史とロマ
  ンがいっぱい埋れているようです。
 ・会員の皆さんからの情報提供をお待ちしています。どんな細かなことでも結構です。     (田)


 「咸臨丸レクイエム・清水の夜明け」を書き終えて

  昨年清水市民文化会館で公演され好評だった「帰って来た千人針」に続く劇団・清見潟の第三回公演は
    「咸臨丸レクイエム・清水の夜明け」と決まった。明治元年9月、咸臨丸事件の起きた清水港を舞台に、
 主人公は清水次郎長。
  長い間構想を練りつづけた劇作家杉山雅子さんによる台本がこのほど完成し、この秋の公演に向かって
 稽古が開始された。杉山さんが次郎長に光りを当て、何を描こうとされたか、ご自身の筆で語っていただ
 いた。

 今秋、私たちの劇団・清見潟で公演する「咸臨丸レクイエム・清水の夜明け」(演出・渥美啓二)は、清水港開港百年祭プレイベントとして、また清水次郎長に新しい光をと願って創作した作品である。
 今まで、映画やテレビドラマ、芝居などで次郎長を描いた作品は百本以上あるが、ほとんど次郎長半生の任侠を謳歌した娯楽物で、僅かに昭和10年岡本綺堂作「鉄舟と次郎長」が歌舞伎俳優によって上演されているが、これは咸臨丸士官と山岡鉄舟が主軸である。
 私の書きたかった次郎長は、明治以降社会事業に貢献した彼の後半生であるが、いざ書くとなるとなかなか難しく、書き悩んでいた。
 清水港の整備や富士裾野の開墾、相良の油田開発、鉄道の敷設等々、どれもが地味な題材で固く、観客を魅了する芝居としての面白さに欠けてしまうのである。囚人を使っての富士の開墾などは物書きとして大いに食指が動き、暖かさと強さを併せ持つ次郎長も描けるのであるが、人生の暗い裏面にも触れなければならない。
再評価を希(ねが)っての明治次郎長デビューであれば、お蝶という華も、湊の男の心意気も入れ、笑いや涙、感動で盛り上げたい。書けないまま徒らに刻が過ぎた。
 平成7年、私は生涯学習の清見潟大学塾の一講座として劇団・清見潟を創立し、地元の歴史、文化についての創作劇をモットーとして来たが、旗上げ公演の「異聞、三保羽衣物語り」も第2回の「還って来た千人針」もお蔭で大好評。後者では県芸術祭演劇部門で静岡新聞社賞を頂くことができ、次郎長のことは暫し忘れる程の忙しさに身を置いていた。
 1年前のことである。『歴史街道』1992年2月号に掲載されている歴史作家田口英爾先生の「咸臨丸」を再読している時、田口先生の咸臨丸への熱い思いに打たれてか、突然閃くものがあり、大きな希望がふくれあがってきた。
 そうだ!咸臨丸事件を中心にした人間次郎長を書こう!鉄舟を感激させ、鉄舟に感化されて変身して行く次郎長を書こうと心に決めると、劇団メンバーで「季刊清水」編集長 坂本ひさ江女史の紹介を得て、田口先生にお目にかかった。快く取材に応じて下さった先生は私の趣旨に御賛同下さり、以来御存知ことは惜しみなく教えて下さったのである。しかし未熟な私には荷が大き過ぎて何回も書き直し、この春5稿目がようやく台本になった。
 全2幕、上演時間1時間半、出演者20余名で舞台は次郎長の家、すでに稽古は始まっている。第1幕では咸臨丸乗組員の死体引き揚げを決意するまでの次郎長とお蝶、子分7人、漁師、幕臣の妻、近所の芸者たち、見廻り役人、鉄舟の登場で、世相、人情、対立、葛藤が浮き彫りとなり、幕の終りでは、うって一丸、お蝶と子分の女房たちが炊き出しまでして、男たちを励まそうというプロセスである。
 第2幕は半年後の小正月。賑やかな幕明けの後半は、鉄舟と次郎長によるこの芝居最大の山場となる。後に社会事業家に変貌する次郎長を示唆し、また子分たちの行末を案じて、その後もやくざの足を洗えなかった彼なりの人生哲学の片鱗を覗かせている。
 最後に皆様にお願いを申し上げたいのですが、演劇はあくまで史実や真実をふまえた上で、舞台に虚構の世界を繰り拡げるものであり、そのことを御理解いただき、一人でも多くの皆様の御観覧を心よりお待ち申し上げる次第です。  (劇団清見潟代表 杉 山 雅 子)


次郎長こぼれ話――郷土研究会々報から


 敷居は決してまたがない

 次郎長は生まれてすぐ、甲田屋へ養子に行ったが実母の名は「とよ」という。次郎長は文政3年(1820)の生れだから、あと20年ほどで生誕200年になるが、この間に代は4代ないし5代かわっている。5月下旬、清水郷土史研究会会長林清見氏の母堂八重さんが、96歳の天寿を全うして他界されたが、その曾祖母にあたる「みの」さんは次郎長の実母「とよ」の姉で、甲田屋(米穀商)から江尻宿の古着商松田屋の松田政吉に嫁した。
 郷土史研究会の年次総会が、清水市中央公民館で開かれ、慶喜研究の第一人者原口清先生の記念講演があってからまだ10日とたたない頃のことだが、林清見氏から編集子は、市立図書館内の活動室でこの話を聞く機会を得た。
 次郎長は伯母の嫁ぎ先である松田屋へは、ちょくちょくやって来たそうである。しかし店先から声をかけるだけで、けっして敷居をまたいで内に入ることはなかった。渡世人としての自分の分限をかたくなに守っていたのである。
 次郎長が生まれてすぐ養子に行った米穀商甲田屋の家系は絶えているが、その流れを継ぐ清水市美濃輪の豆腐製造業稲荷屋には家系図が大切に保存されている。




● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
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