次郎長翁を知る会
『次郎長翁を知る会』


会報第1号



歿後百年「次郎長翁を知る会」発足

清水の生んだ偉才の人間像 伝えよう!

 次郎長翁が、清水港の波止場で自ら営んでいた末広旅館の一室で亡くなったのは、明治26年である。来年はいよいよ歿後百年を迎える。そこで、次郎長の有大な人間像を探り、その残した功績を後の世代に語り継ごうと「次郎長翁を知る会」が結成された。発起人には清水財界御三家の鈴木与平氏(鈴与グル−プ)、佐々木哲雄氏(清水銀行)、後藤磯吉氏(はごろもフーズ)が参加し、会長に竹内宏氏(長銀総研理事長)を迎えて、発足式が去る5月6日、清水市役所内で行なわれた。会場には予想を大幅に上回って180人が列席。熱気あふれる中で、井出孝氏の司会により、服部令一氏の経過報告、府川松太郎氏の趣意書説明、事業計画審議承認、発起人三氏のあいさつと議事が進み、竹内宏会長のあいさつでしめくくられた。会はいよいよ来年の歿後百年に向けて、スタ−トした。




●『時代が動き人が動く』 ― 次郎長の後半生 ―

                会長 竹内 宏

  明治維新は政治体制を塗り替えたばかりではない。次郎長の人生も一変させた。彼にはすでに、徳川も薩長もない。統一国家というアイデンティフィケーションが出来あがっていたのだ。本稿は平成4年8月27日、東京吉池ホールで開かれた宝井馬琴師匠の会で語ったものからまとめた。(文責は編集部:写真は梅蔭寺内次郎長銅像と竹内氏))

 私が清水次郎長をなぜ尊敬しているかと言えば、後半生が素晴らしいからです。だいたい前半生がぐれて、後半生が真人間になるというのは、英雄偉人の辿る一つの定型だが、次郎長が後半生、真人間になるきっかけとなったのがは、明治維新です。
 慶応3年10月に大政奉還がありましたが、上院を藩主、下院を藩士が占めるというこの構想は、徳川政権がそのまま残るという形だけのものでしたから、薩長連合軍はこれに反対し、鳥羽伏見で幕府軍を蹴散らした上で、有栖川宮を大総督として東海道を攻め上がります。
 慶応4年3月、先鋒の浜松藩が駿府(静岡)にやって来ました。
浜松はもともと徳川の親藩です。しかし、江戸と京都を結ぶ情報が頻繁に流れる東海道の中心点にいるわけですから、どちらが形勢がいいかという判断ができる。長岡とか会津などの東北の藩は、情報ギャップのために徳川幕府側について、後に悲惨な目に会うことになりますが、抜け目のない情報が入る浜松藩は、いち早く官軍につき、静岡を占領します。
 占領というのは権力の交替ですから、警察権がとって代わります。幕府の出先機関だった駿府町奉行に代わって、占領軍の浜松藩家老伏谷如水(ふせやじょすい)が、静岡の警察長官となり、同時に裁判官ということになります。
 静岡という地名は、駿府の府で府中といいましたが、府中は不忠に通じるというので駿府となり間もなく静岡というという名前に変わりました。現代でいえば、百合ヶ丘とか、ひばりが丘といった、当時としては何となく重味のない名称がつけられました。
 静岡の占領軍長官だった伏谷如水は、清水の警察権をまかせる市中警固役として、清水次郎長を抜擢しました。これは如水の慧眼によるものです。
 清水次郎長はバクチ打ちであります。現代でいえば、レジャー産業に占める賭博産業の経営者というようなものです。
   賭博産業は、現代でも非常に盛んで、パチンコの年間売上高は16兆円、競輪・競馬の8兆円を加えると25兆円、GNPの6%になんなんとする大産業です。ちなみに、自動車産業が国内で12兆、衣類産業が17兆、社会保障費の総額が15兆、軍事費は僅か4〜5兆、いずれも賭博産業の25兆円に及びません。
 江戸時代も、賭博はセックスと並んで重要産業で、これを押さえていたのが、侠客と呼ばれる人びとです。この賭博産業を押さえるには、なかなか難しいノウハウが要る。あまり収益率を高めると客が減り、下げ過ぎると競争激化に落ち入る。
 これらの産業は、アンダ−グラウンド・エコノミ−ですから、その中で有形無形のル−ルをきめながらうまく治めていかなければならない。つまり、経営者は公正取引委員会の役割を同時に兼ねながら、適切なカルテル体制をつくる。次郎長は、東は伊豆から西は遠州あたりまでを配下に治め、地域のリーダーとして、勢力のバランスをとるという感覚においても、きわめて秀でていたと思われます。
 ところで、如水によって市中警固役に抜擢された時、次郎長は50歳に手が届く年齢になっていましたが、これを機に人格が変わる。一挙に真面目人間に変わります。一挙に変わるということは不思議に思われるかもしれないが、人間というのは案外、変わりやすい。とくに時代が動くときには変わりやすい。たとえば、この時代、静岡にはいろいろな人がいたが、その中の一人に澁沢栄一がいます。
 澁沢栄一は、埼玉県深谷の出身。農民出身ですから、武士に対する反感が強く、徳川幕府が危うくなった時期に、一揆を起こして高崎城を攻めるという計画をたてる。その計画がばれて、京都に逃げる。京都には知人の一橋家用人の平岡円四郎がいて、見込まれて一橋家の家臣となり、徳川慶喜配下の重鎮におさまる。次いで慶応3年にパリで万博があり、幕府も出品するが、慶喜の弟の徳川昭武が責任者として派遣される。驚くことに、澁沢栄一はその随員となり、パリに留学する昭武の学問の相手役に選ばれる。帰国した時には、徳川幕府は消滅し、静岡藩70万石に封ぜられた徳川家は静岡にいますが、澁沢栄一はここにやってきて、日本で初めての株式会社を静岡でつくります。その業績が認められ、明治政府に登用されて大蔵省の主税局長になりますが、間もなく退官し、民間に下りて日本郵船とか東洋紡、帝国ホテルといった日本の大企業三百社をつくる大事業家になります。つまり、反幕活動家から幕臣、新政府官僚さらに民間経営者というふうに渡り歩くのであります。
 次郎長が尊敬した人に山岡鉄舟がいる。彼も徳川慶喜の秘書役から、驚くことに明治天皇の秘書役に変わる。
 また、次郎長の墓石を書いた榎本武揚は、最後まで官軍に刃向かった人である。明治2年、五稜郭にたてこもって戦ったさい、攻められていよいよだめかなあとなった時、官軍の将黒田清隆に「海律全書」を渡す。この本は榎本武揚がオランダ留学の際手に入れたもので、自分が死んでも、この本が焼かれてしまっては何もならないということで敵方に渡すわけです。黒田清隆は感激して一日戦争を止め、5つの酒樽を武揚に渡す。翌日から戦争が再開され、榎本武揚は遂に敗れて和睦する。この武揚は黒田の奔走で助命され、後に明治政府の農林大臣になります。
 こういったことを考えてみますと、徳川300年の間に、われわれの中に「ナショナリティ」というのか、一つの「アイデンティフィケーション」ができていた。つまり、国民としての自覚ができ上がっていたのです。どちらについても構わない。官軍と賊軍との対立は、キリスト教の中でのプロテスタントとカトリックの対立、あるいは、回教とプロテスタントの対立といった絶対的なものではないということです。したがって、清水次郎長が、あっさり官軍についたといっても、これは裏切りといったものではないと思われる。幕府の直轄地である清水や静岡では、「官軍のお先棒をかつぐというのは何事か」という気風がありますが、決して脊信行為ではないということを、次郎長のために弁護しておきたい。
 次郎長の第一番目の功績に、咸臨丸事件があります。箱館に立てこもろうとして江戸を出た咸臨丸が台風にあい、清水に漂着する。明治元年9月、官軍の船がそれを追ってきて、残っていた幕府軍を斬ります。十数名斬って七名の死体を海に投棄しますが、次郎長はこれを手厚く葬ります。これは、現在でも壮士の墓として残されています。
   当時、幕府軍を手厚く葬れば官軍に処断されると、誰しも考えます。しかし、次郎長にはすでに、「国家」としてのアイデンティフィケーションができていた。「われわれは一つの国の国民になっている」という自覚ができていたので、幕府軍の死体を手厚く葬った。つまり、日本国家としての法律のあるべき方向を、すでに次郎長は知っていたということであります。「賊軍も官軍も死ねば仏だ」と言って葬ったということですが、これはわかりやすく言っただけの話で、本来は日本国家としてのアイデンティフィケーションを、彼はみごとに自覚していたと思われます。
 この年9月、明治天皇は京都を出発し江戸に上る。慶応4年は明治元年となります。すでに徳川慶喜は静岡の宝台院で謹慎生活を送っていますが、徳川宗家を継ぎ、静岡藩70万石の藩主となった徳川家達(いえさと)が静岡にやってきます。相前後して、江戸を追われた徳川の家臣たちが、船に乗って続々とやってきます。
 一船に2500人も乗り、全体で1万7000人が清水港に上陸したということです。当時、清水町の人口は、世帯数でたかだか900ほど、そこへ2万人近い人が、江戸からやって来る。一船2500人をはしけに乗せて上陸するだけでも大変な仕事です。なかには出産したての女性もいます。それを次郎長はみごとにさばきました。
 江戸から静岡に来た徳川家臣たちの中には、たとえば、徳川慶喜が将軍だった時代の護衛隊である新番組の隊士たちがいました。山岡鉄舟が隊長だったこの隊士たちは、牧の原を開墾し、日本を代表する静岡茶の基を築きました。
   静岡藩には、江戸にいた徳川幕府の中軸の連中がやってきていました。勝海舟、大久保一翁、杉浦梅潭などです。中村正直もその一人です。彼は「西国立志編」の訳者として有名です。英国のスマイルズ原作のこの書は、明治初期、人口3千万の時代に百万部売れたという大ヒット作品です。勤勉とか勤労、節約の思想を謳ったもので、アメリカでいえばフランクリン、日本では二宮尊徳とか石田梅岩の哲学のような内容です。これを中村正直は幕末に渡欧したとき、英国で手に入れ、明治になってから出版し、当時の人びとに大きな影響を与えました。さらに、津田真一郎など、そうそうたる人が静岡にいました。
 清水にも徳川家臣による明徳館という私塾ができました。旗本の新井幹がつくったもので、後に名門の清水小学校になりました。この明徳館で次郎長は英語の塾を開きます。静岡には英学の最精鋭が揃っており、この人たちが教えに来てくれたはずです。
 清水の三保には、アメリカに渡る人がたいへん多かった。私も子どもの頃、アメリカ帰りの家に西洋式の「腰掛ける」便所があるというので、三保まで見に行ったことがあります。三保の人が多勢渡米したのは、この次郎長が開いた英語塾のせいかもしれません。
 明治4年、廃藩置県によって明治政府のシステムができ、次郎長は市中警固役を解かれる。となりますと、彼は清水の港の開発に力を入れ、横浜との定期便を開いて清川丸や静岡丸を運航させます。
 その時代のポイントは、流通を握ることであります。清水港の開発に奔走(ほんそう)する一方で、次郎長は遠州相良(さがら)の油田開発に協力するということがあります。
 ちょうど安政の時代、アメリカではロックフェラーが出て、新しい石油時代を迎えます。石油が灯火用として使われる時代です。ロックフェラーが、石油をどのようにして支配したかというと、パイプラインを敷設してこれを握った。つまり流通がポイントということになります。たとえば中国の現代でも、万元戸と呼ばれる富豪階級は、馬車とかトラックを直す技能を持ち流通を握った人たちから出ています。次郎長が清水港を拡大し、横浜への定期便を開くのに力を入れたのは卓見だったと思います。
 つづいて次郎長は富士の開墾事業を始めます。明治7年から明治17年まで、静岡の囚人を使って、富士の裾野の広大な土地を開墾し、これは現代でも富士市大渕に次郎長開墾として地名も残されています。  安政5年、日米通商条約が結ばれ、横浜や神戸が開港する。それとともに輸入品が激増し、わが国は貿易収支の赤字に悩まされるのであります。当時の日本の輸出品といえば、おくれた国の輸出品と同様、1次産品であり、金、銀、生糸、茶などです。港を開いたら、当然ながら輸出品を作ろうという意欲に拍車がかかる。牧の原で開墾された静岡の茶はアメリカに輸出され、奴隷の人びとに好まれて飲まれた。濃く出した茶に砂糖を入れて飲む、これが一番からだが休まるということです。
 穀類も日本の重要輸出品でありますから、富士山麓を開墾して一次産品を作り、清水港の定期航路を使ってアメリカに輸出しようという考えを次郎長がとったのだと思うのです。
 明治20年代になりますと、次郎長も70歳に手が届くようになります。清水港の波止場に「末広」という旅館兼料亭をつくり、ここで晩年を送りますが、小笠原長生や、広瀬武夫、富岡鉄斉といった武人や文人が多く出入りしました。広辞苑の新村出も、中学生時代に次郎長に会いにやって来ました。新村の父親、関口隆吉は静岡県知事でしたが、当時開通した東海道線の事故でなくなった人で、もともと徳川の家臣であり、山岡鉄舟らと共に次郎長と親交を結んでいました。
 こうして当時の武人や文人が出入りする末広の開業は、いわばサロンを開いたわけであり、今日でいえば、経団連、あるいは商工会議所であったかもしれません。
 こういったぐあいで、次郎長の後半生は、たいへん素晴らしい時代であったと思うのであります。

 

●『清水次郎長の魅力』

                理事 伊室一義(安田ロ−ン総合サ−ビス(株)社長・元安田火災専務)

  私は伊賀の上野の生れだから、清水の人ほど次郎長さんのことは知らない。しかし、清水の次郎長を私は好きなのである。ガキの頃から聞き慣れた浪花節や講談が徐々に頭の中に染み込んだためか、次郎長三国志などの映画の影響なのか、それははっきりとは分からないが、あの何ともいえない格好の良さがたまらない。
 清水の次郎長と言っても表面的な事しか知らない人は多いのだが、どういう訳か私の場合は自分の勤めている会社の社長が清水次郎長さんの事を教えてくれた。安田火災中興の祖、三好武夫社長は損保業界では型破り的な存在で、この人に率いられた安田火災は野武士軍団といって恐れられたが、とにかく安田火災はこの時期大きく発展した。次郎長さんと三好社長との共通項は肝っ玉の太さで、それは「精神満腹」と山岡鉄舟から折り紙をつけられた次郎長の胆力に、三好という人は心底惚れ込んでいたからである。「次郎長のように、腹を据えて仕事に掛かれ!」とか「修羅場を潜らにゃ、人間一人前じゃないよ」などとよく聞かされたが、これは次郎長が子分の大政や小政に日常言っていたことかも知れない。
 ところで駆け出しの新聞記者が財界人にインタビュウ−するとき「あなたの尊敬する人物は?」という質問をよく使う。「はい福沢諭吉です」「渋沢栄一です」と返答が返ってくればしめたもの、予め仕込んである福沢諭吉や渋沢栄一のネタを基に対談を有利に進めていけるのである。こんな月並みな質問に飽き飽きしていた三好社長は、「尊敬する人物?それは清水の次郎長です」と答えてニヤリとしていた。相手が調子に乗ってこないので不満気な若造新聞記者が「へえー。あのヤクザの次郎長ですか?」と軽蔑の眼差しで念押しをすると、三好さんは「はい。私の尊敬するのは明治の次郎長です」と言って涼しい顔、明治の次郎長を知らない新聞記者は次の句が継げず、早々に退散という塩梅(あんばい)だった。
   「社長、明治の次郎長さんは一体どんな事をしたんですか?」私達の質問に、どこで仕込んだのか三好社長は「咸臨丸(かんりんまる)事件」や「富士の開墾」や「英語塾」の事をよく知っていて、熱っぽく私達に話してくれた。後日、私のクラスメ−トで専門家の田口英爾君にこの事を話したところ、「それは昭和40年頃の小金井新聞か、または戦前の週刊誌で見られたのかも知れないね。このことを知っている人は少ないんだけど」とのことだった。私に次郎長のことを教えてくれた三好さんはもうこの世にはおられないが、この人の下で一生懸命にやってきた色々の仕事の思い出と共に、私の次郎長さんに対する憧憬は膨らむことはあっても、決して萎(しぼ)んでいくことはない。だから、「次郎長翁を知る会」の設立と聞けば何を差し置いても東京から駆けつけたし、その帰りが新幹線の故障でクタクタになったのに、百回忌記念「講談と映画の夕べ」と聞くとじっとしておれなくなり又出かけて行って家内に冷やかされた。「あなた、清水に恋人でも居るんですか?…そんな力のないことを百も承知の質問に「いやー、それが居るんだよ。その人の名は………清水の次郎長」この答えに、家内はかつての新聞記者さんのように目をシロクロさせていた。


●『富士裾野に広がるロマン』 ― なぜ開墾地に富士が選ばれたか ―

                事務局長  服部令一(次郎長生家 6代目御主人)

  次郎長が富士を開墾したことは周知のことだが、この開墾地を何故富士裾野に選んだかは謎とされていた。 たまたま、次郎長開墾より少し登った所(標高1000m)に神道天照教の本部があることを知り、ここに次郎長手植の桜が現存すると聞いて現地調査をしてみた。
 話しのきっかけとなったのは、去る5月6日の「次郎長翁を知る会」が発足した直後、静岡市の徳田政信さん(中京大学名誉教授)から、次郎長に関する資料をご所蔵とのことで早速お訪ねしたところ、氏の令弟が神道天照教を継承し、その本部が次郎長開墾からそれほど遠くないところに所在すると聞いたのである。
これを更に調べているうちに、国史大辞典、静岡県歴史人物事典、神道小辞典にも、その事実が記載されており、次郎長が、この神道小辞典にも、その事実が記載されており、次郎長が、この神道天照教開設と次郎長開墾に関わった事実が発見されたのである。これを証するものとして現地に、徳田寛豊(桜田門外で井伊直弼の首級を挙げた人)、西郷従道(西郷隆盛の弟)、高島嘉衛門、清水次郎長の手植の桜が本殿前に植えられている。
この神道天照教は、日本国に国教を築く大理想に向かっての大事業で、当時の高官であった西郷隆盛が京都に向かう途中、吉原宿の「たいや旅館」に宿したとき、富士山の瑞気、天に沖する姿を見て、この地を日本の中枢地と定め、遷都も話し合った模様である。遷都の構想は、縦に50間の道路を八本海まで通し、横に30間道路を12本碁板目に交錯させて海側に三大楼門(蒲原に信門、田子浦に儀門、原に礼門)を設け、ここから諸外国との交流をするという構造図で、絵巻物として残されている。
 教祖、徳田寛豊は、日本を救い、日本を精神的に泰らけくに導くものは宗教であると信じ、神教、仏教、儒教、キリスト教を統一して老若男女の別なく、誰でもが知り、誰でもが実行できる教えを広めるため、神道正照教の設立を試みたのである。この決意の下に侍の禄を総て返上して野に下り、その代償として富士宮の入会地20町歩(6万坪)をもらって聖地を築いたのである。
当時の信者は10万人もいて、本部の周りには旅館36戸と豆腐問屋、風呂屋等立ち並んで栄えた模様であった。



● Q&A

次郎長に関する質問に丁寧に御答えいたします。(会員、非会員問わず)
「次郎長翁を知る会」への入会方法なども こちらへどうぞ




会報第1号/会報第2号/会報第3号/会報第4号/会報第5号/会報第6号/会報第7号/会報第8号/会報第9号/会報第10号/会報第11号/会報第12号





『次郎長翁を知る会』HOME / 最新情報 / 船宿『末廣』/ 次郎長物語 /清水次郎長/静岡異才列伝/次郎長テスト/ お問合せ /


-web管理者-