清水の次郎長

<その 2>

  次郎長の前半生を「義理の人」とするならば後半生はまさに「人情の人」と言えよう。彼の後半生は明治維新の最中、政府の要人との関わり合いの中で花開いた。特に有名な話に、「咸臨丸の事件」がある。
時は明治元年(1868)9月18日、徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。次郎長は傷つく徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬ったのだった。

 これらの行為が駿府藩の耳に止まり、出頭、詰問を受けたがそこで次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けします。」と答えたのだった。抗争で人を殺し、自分も生死の狭間を生きた一人の博徒が初老にしてたどりついた境地であった。このいきさつをあとで聞いた山岡鉄舟は、ただの博徒に過ぎない次郎長が一番高いところからものを見ていることを知っていらいいたく感服し、鉄舟が明治21年に亡くなるまで親交が続き、また次郎長も自分より17歳も年下の鉄舟に心酔し数多くのことを学びおおきな感化を受けたのである。  (写真は山岡鉄舟)

 山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を得た次郎長はその後様々な社会活動をおこなった。有度山(清水市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋、などの地元事業のほかに、遠州相良(榛原郡相良町)で油田の発掘事業にも携わったり、明治8年には鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。自らも鍬を握り十年にわたって開墾に励んだのである。また開墾のかたわら、「これからは外交の時代、言葉ぐらい話せなくては」と先駆け、明治9年に清水に英語教師を招いて若者の英語教育を始めたほか蒸気船の必要を力説し、自らも所有して清水港とその発展に尽力した。  晩年、次郎長67才の時、波止場に汽船宿『末広』を経営し、海軍少佐小笠原長生をはじめとする要人も多く訪れた。そして、いつも懐に菓子を持ち子供に与え、金を持てば困った人にくれてまわる毎日だった。人々はそんな人柄を愛し、誰もが『次郎長さん』と敬称した。  明治26年6月12日、74才で大往生をとげた。遺骸は、妻のお蝶(三代目)、大政、小政らの子分らの墓に守られて静かに梅蔭寺に眠っている。

 前半生の次郎長はたしかに博徒であった。だが人の功績は死したあとに定まるものであるとするならば、信念を持って地域に尽くした人情家、社会事業家としての晩年の次郎長を無視することは出来ない。幕末から明治に生きたひとかどの人物であったことは間違いないのである。

 次郎長の精神はいまも清水市民のこころに根ずいています。人情もろくて義理がたい。おっちょこちょいだがノンビリ屋。言葉はきたないが気持ちはきれい。ちょびちょびおせっかいやきたがる。そんな人よく見かけます。
『次郎長さん』は今でも清水を代表するような人物でなのす。  


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