清水の次郎長

清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達。
幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長。広沢虎造の浪曲をはじめ、数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、こん日まで多くの人に語り継がれてきました。が、ここまでならばただの悪党。義理が重たい仁侠の世界で名をはせたからとはいえ、次郎長がこれだけメジャーになったのは彼の晩年の生きざまを語らずして無いと言える。彼ののちの功績を見ておわかりのように、まさに転身、人を愛し人に尽くした後半生。これこそ御人が多くの人々に愛され評価されている由縁なのであろう。
    次郎長銅像     

本名を山本長五郎。文政3年(1820年)元旦、清水市美濃輪に生まれる。
幼きは同町内の米問屋である叔父山本次郎八の養子となり、次郎八の長五郎が転じて、人は次郎長と呼ぶようになったと云う。儀父のあとを継ぎ、相場でもひと儲けして早くもその才能を表わした若き日の次郎長であったが、二十歳のとき、ある旅の僧から二十五歳の寿命との予言を言い渡されてからは自らの運命を呪うかのようにはみ出し、家をとびだして侠客の道へ身を投じてゆくのであった。
                                      清水次郎長肖像画

 およそ喧嘩か博打に明け暮れながらも刀の腕と度胸は鍛え抜かれ、弘化2年(1845年 次郎長二十六歳)の甲州津向の文吉と駿州和田島の田左衛門の河内の大ゲンカの仲裁をきっかけにその名を売り、いちやく侠名人の仲間入りを果たした。刃物も切れれば、頭もきれる。筋も通せば義理も固い。そんな次郎長に惚れてついた者も数知れず、いつしか28人もの子分衆(28人は講談等が作り上げた人数。実際は千人もの乾分に及んだと云う)を従える東海きっての大親分となっていったのだった。
    次郎長生家

 だが、もしも次郎長が単なるのゴロツキの集まりの大将であったなら、天下の大親分なんて決して云われなかったであろう。その子分衆がまたすごくて、それぞれの地区を代表するような大変な輩ばかり。手のつけられない暴れん坊、森の石松や、槍の使い手怪力無双、大政。念仏唱えて人を切る法印大五郎などなど、その人一人でも充分物語りになってしまうような実に多彩なキャラクター揃い。これらを束ねていたことからだけでも次郎長という御人にその人望人徳と並みならぬ器量を感じざるをえない。
                                         生家内

 次郎長の前半生は確かに「博徒その親分」。面倒見がよく、弱きを助け強きを挫くいわば悪役スターなれど、20余年にもおよぶ甲州は黒駒の勝蔵との血みどろの争い、伊勢への遠征などは華々しく語られようとも決して鮮い功績とは言い難い。
されど次郎長は「大親分」なのである。彼の前半生、そこには「義理の人 次郎長」が居た。  


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