清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達。
幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長。神田伯山の講談、広沢虎造の浪曲をはじめ、小説や数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、こん日まで多くの人に語り継がれてきました。が、ここまでならばただの悪党。義理が重たい仁侠の世界で名をはせたからとはいえ、次郎長がこれだけメジャーになったのは彼の晩年の生きざまを語らずして無いと言える。彼ののちの功績を見ておわかりのように、まさに転身、人を愛し人に尽くした後半生。これこそ御人が多くの人々に愛され評価されている由縁なのであろう。




本名を山本長五郎。文政3年(1820年)元旦、駿河国有度郡清水町美濃輪に、薪炭を商う『薪三(まきさん)』の船持船頭三右衛門の次男として生まれる。そのころは、「元旦に生まれた者は、偉人か、大悪党のどおちらかになる。親元で育てると運勢が強すぎる」といわれていて、生まれてまもなく同町内の米問屋(甲田屋)である叔父山本次郎八の養子となった。幼年時代の次郎長は実父の三右衛門の気性に似て荒く正に悪童そのもの。同じ年頃の子供を見つけては喧嘩や取っ組みあいばかりの毎日。身長が自分より高いも、歳が上であるのも関係ない。どんな相手でも負かしてしまうので、いつしか甲田屋の次郎八のところの長五郎は有名になり、「次郎長」と呼んで、その姿を見れば年かさの子供達も逃げ出すほど恐れられた。

実父雲見の三右衛門の家(現「次郎長生家」)の裏木戸を抜ければ、そこは古き良き下町の路地が通る。生家から甲田屋までは程近い距離。次郎長が幼少のころ喧嘩をしたり遊んだりした甲田屋の裏のこの細い路地は、今でも近所の子供たちの遊び場だ。

右手の民家の裏手は、巴川の川っぷち。現在の清水港が出来る明治以前は、この巴川の河口付近が港であり、美濃輪から上流へ向かった本町〜上町付近までは、播磨屋(現「鈴与グループ」)、松本屋(現「天野回槽店」)、三保屋(現「石野源七商店」)などの廻船問屋が軒をつらね、江戸時代を通じて幕府の庇護のもと漁師や商人が行き交う栄えた湊であった。
次郎長の気性はさらに荒く、時をまして凶暴になっていったため、手を焼いた次郎八夫婦は次郎長8歳のころ、村塾に通わせる。ところが教場にあっても喧嘩ばかりでいっこうに字など習おうとしない。先生も手を焼き直ぐに退塾。こんどは禅寺の寺子屋に行かされたが、粗暴は変わらない。ある日、その禅寺の池の金魚が欲しくなった長五郎は自分の弁当箱の食べ残しを餌によって来た金魚をすくっては空の弁当箱に入れ持ち帰るという悪知恵を働かせていた。この一件がのちに寺の住職の耳に入り、ここでも追放のはめになった。次に由比倉沢にある伯父のもとに預けられた。伯父は親戚4家で輪番し、東海道の難所、薩唾峠(さったとうげ)の山麓の仕事に長五郎をしばりつけ、課せられた仕事を終えるまで飯を食べさせず、乱暴をはたらくほどの精力が出なくなるまで苦役を課した。次郎長にはそれがよほどこたえたか、この甲斐あって少しは改心が見え、再び次郎八のもとへ帰り、仕事に精を出す日々が続いた。

15才の時、青雲の志しが沸き起こる次郎長は、江戸で一旗上げようと義母の溜め込んだへそくり4百50両をふところに飛び出したが、途中捕まり怒った次郎八に勘当されることになる。しかし次郎長は、勘当を受けてもしょげかえることは無かった。隠しもった100両を手元に今度は浜松に向かい、米の相場で巨利を博すと、玄米50石と100両を持って、何も無かったかのように清水に舞い戻って来たのだ。その後次郎長は改心したかのように甲田屋の仕事に精を出した。

甲田屋の米蔵があったといわれる美濃輪町のゴトー家具裏横の空き地。次郎長は江戸へ発つ前、この蔵のある庭の木の根元にあらかじめ100両を埋めて隠しておき、勘当されたその晩にこっそり舞い戻り、掘りかえした。捕まることを始めから予測した何ともずる賢い少年だった。

その頃の清水湊とその周辺には甲州廻米や御城米蔵があり米仲買いも多く、米穀商の甲田屋もかなり裕福であったにちがいない。次郎長は浜松で得た玄米を、買い付けた船に載せ、見たことも無いような立派な衣装を来て湊に凱旋したという。港という地の利を若い頃から肌で感じていたのだ。
巴川にかかる港橋のたもとには現在、「甲州回米置場跡」の石碑が残されている。


次郎長は18歳のとき一度妻を迎えている。16歳の時、義父次郎八が病気で死亡したのち、義母が全財産を持ち出して駆け落ちした無一文のスタートである。勤勉になり、もともと商才のあった次郎長は、たちまちこの新妻(不詳)と甲田屋を盛り上げた。次郎長が一般市民として唯一平凡な暮らしをしていた時期である。
しかし、次郎長22歳の時、甲田屋に押入った強盗に斬り掛かれたことをきっかけに、旅の層が彼に言った「25歳までの命」という予言を思い出した次郎長は、「一生懸命稼いだ銭も、銭があるがために妬まれる。どうせ一つの命ならば、思い切ったことをやって悔いを残ぬよう暮らす方がましだ」と思い、この時からまた一転、遊侠の道に身を投じてゆくのであった。
商売を放りだし、勤勉に働く事をやめ、さいころと博打、酒、そして好きな相撲に興ずる毎日だったが、ある日、遊び仲間とともに北矢部(清水市)の出入りで人を危めると、妻とも別れ、家業と財産も姉夫婦に譲ると全く身一つの無宿者となり、江尻の大熊と庵原の広吉を従えて上方への旅にでる。この時次郎長23才。その名を東海道に轟かす旅の出発点であった。

次郎長が甲田屋の仕事に戻されたころは、ちょうど天保の大飢饉のさなかだった。米価が高騰したお陰で甲田屋は大儲けした。そんな影で義母の金に執着する醜い姿を次郎長は見ていたのかも知れない。そして自らが強盗に襲われた時、金銭への固執を捨て自由でおおらかな人生を歩む決意がかたまったのではないであろうか。
後年になっても次郎長は財を築こうとはせず、むしろ借金ばかりであった。それにも関わらず、困っている人がいれば、銭を与え、子供達には菓子をまいてあげる好々爺だった。


旅に出た3人ではあったが、先立つものが無い。まずは吉良(愛知県)の小川武一親分をたより身をたてることにする。
剣豪で侠客の武一のもと、朝は稽古の虫の如く剣術を学び、夜は賭博を事とす毎日をおくった。


<つづく> 次回更新にこうご期待を...。

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